第150話 カサン語大会 13

 しかしヒサリのそんな物思いはすぐに中断された。スンバ村第四学校の名が呼ばれ、マルはヨタヨタといつもと同じような足取りで壇に近付いた。

ところが、次に彼の取った行動は思いがけないものだった。彼は壇上に上らなかった。彼はその場にひょこんとしゃがみ込み、あぐらをかいた。

「何をしているの! 壇に上がりなさい!」

 ヒサリは思わず叫んでいた。進行役の男もマルに近付き、壇上に上がるように促した。しかしマルは首を振り、男に何か言った。すると男はそのままマルから離れた。観客はざわつき始めた。観客の一人が

「物乞いのガキはそこで十分だ!!」

 と叫んだ。ヒサリの怒りは沸点に達した。

「ひどいわ! こんな事、大会の汚点よ!」

 ヒサリはテセ・オクムに言った。

「私をあの子の所に行かせて! 壇上に上がるように言いに行きます!」

「先生」

 不意にラドゥが言った。

「マルはあんな風に地べたに座って話す事に慣れてるんです。壇に上がるとかえって緊張するんじゃあないですか。大丈夫ですよ。ここにいる人達、もう半分位マルの味方です。マルの話を聞いたらもっとあの子のことが好きになります。私も私のきょうだい達もそうでしたから」

 やがて、マルの澄んだ声が会場に広がり始めた。年齢的にはもう声変りしていてもおかしくないのだが、体の成長が遅いせいか、いまだに鈴を鳴らすような高い声であった。

彼が語り出したのは、幼い頃母や兄と共に川の市場で物乞いをしていた頃の思い出であった。それは光に満ちた楽しい日々の記憶であった。遠くから市場に世にも珍しい物を持ってやって来た商人達や買い物客の様子が生き生きと語られた。ヒサリはそれらの物語を、マルの作文を通じて知っていた。しかし彼は書きながら、同時に口ずさんでいたのかもしれない。マルが話すにつれて、観客が次第に彼の話に引き込まれてゆくのが分かった。マルはエルメライと違って、難しい言葉を使わなかった。だから観客のうち多少カサン語が分かる者は、マルが幼少期の楽しい思い出を語っていることがなんとなく理解出来ただろう。

「けれども、ある時悲しい出来事が起こりました」

 マルはそう言った後、「あの日」の事を語り出した。そう。あの恐ろしい洪水の夜、対岸に流された親子のうち、自分だけが親切な一家に匿われて命拾いした事。しかし翌日、避難所で自分の母親の死を知った事を。

やがて、いくらかカサン語の分かるらしいアマン人の数人の観客の間から、すすり泣く声が聞こえてきた。この時、ヒサリの心に重いものがよぎった。ここにいる人達にとって、あの洪水の記憶がいまだに癒されぬ傷なのは間違いない。

マルはさらに、母親を失った直後ヒサリと出会ったこと、学校で勉強を始めたこと、カサン語を学ぶ喜び、カサン文化のすばらしさ、初めて汽車を見た時の驚き、カサン語の本を読む時の至福の時間などについて次々と語った。溢れんばかりのカサンへの愛に満ち溢れていた。彼の話を聞いたらカサン人の誰もが胸打たれたであろう。

 しかし、その直後である。彼は驚くべき事を口にした。

「私の母は、大雨でダムが壊れてしまったために、そこにたまった水が流れ出し、川が溢れて溺れてしまいました。このダムを設計したのはカサンの人達です。そして作ったのは貧しいアマン人です。ある人は、私達の行いが悪いから妖怪の怒りを買ったのだといいます。ある人は、いいやそうじゃない、我々は何も悪くない。ただカサン人の設計にミスがあった、それにあまりに急いで造らせたからこんな事になったんだと言います」

(なんということを!)

 ヒサリの全身が凍り付いた。マルの口にした事は真実であった。ダムの工事のために、周辺に住む多くのアマン人の、特に貧しい若者が大勢徴用された事、その中にマルの兄も含まれる事、あまりにも急激でずさんな工事だったため、ダムの決壊が起こったこと、そのためにマルの母親が死んだ事……。この事実は、ずっとヒサリの胸の奥に澱のようにたまっていた。ヒサリ自身にとっても耐え難い事実であった。ずっと、直視する事を避けていた。

「けれども避難所のそばに、死者の衣をまとった母は私の前に不意に現れたんです。そしてカサン人のオモ・ヒサリ先生の元に導いたくれたのです。私はその事の意味を、その後何度も考えました。子どものたわいない夢と人は言うでしょう。けれども私にははっきりと思いました。母が、私に、オモ先生がらカサン語を学ぶように言ったのだと。母は私が、カサン人の偉大な知恵をオモ先生から学ぶ事を望んでいると。そして母はきっとこう思っているでしょう。ダムが壊れてたくさんの人が死んだことでカサン人もきっと悲しい思いをしている、だからもし私達が知っていてカサン人が知らない事があれば教えてあげたらいい、と。お互いに知っている事を教えあったら、私達はもっと賢く、強くなれる。母は私にそう言っているように思いました」

 ヒサリは話を聞きながら卒倒しそうな思いだった。いつ進行係が出て来て彼を制止してもおかしくない、と思った。マルはさらに言葉を続けた。

「カサンの人達は私達が背伸びしてもとても追いつけない素晴らしい技術を持っています。けれども、カサンの言葉や文化を学ぶうちに私は知りました。それはカサン人と私達の物語がとてもよく似ている、という事です」

 続いて彼は、カサンとアジェンナに伝わる有名な伝説を語り出した。一つはカサンの伝説の『詩人テイ・ワンの物語』。もう一つはアジェンナ国に伝わる『イボイボのトゥラの物語』。どちらもマルが愛してやまない物語だ。

「テイ・ワンとトゥラが、それぞれ物語の最後に受ける試練はとてもよく似ています。テイ・ワンは彼の妻を盗んだ恐ろしい皇帝から試されます。十人の頭巾を被り口を塞がれた女性の中から自分の妻を選びだしてみろ。しかし決して近くに寄ってはならない。もし間違えたら命は無い、と。その時テイ・ワンは何をしたでしょうか? かつて自分が妻に送った詩を読み上げたのです。すると一人の女性の体が微かに震えるのを見て、テイ・ワンは見事自分の妻を探し当てました。これを聞いてアジェンナの人達は、きっとトゥラの物語の最後を思い出すでしょう。トゥラの恋人アルマティカは魔物の娘です。娘をトゥラにやりたくない魔物はアルマティカそっくりの五十人の姉妹の中から恋人を当ててみよ、間違えたら命は無い、と言われます。そこで、トゥラは自分の頭巾を外します。魔物の娘たちはみなイボイボのトゥラの醜い顔を見て恐ろしくて震え出しますが、ただ一人、アルマティカだけはトゥラの顔をじっと見詰めていました。そしてトゥラは恋人を探し出しことが出来ました。二つの話はとてもよく似ていると思いませんか? 私は幼い頃からアマンの物語と共にカサンの物語も楽しんできました。私がもしカサン人の飛行機や建物や病気を治す技やダムしか知らなければ、カサン人が私達と同じ人間だとは思えなかったかもしれません。けれども私はカサン人の詩や物語を知っています。私達と同じ心をカサン人も持っている事を、詩や物語は教えてくれました。カサン人やアマン人は友達同士にも恋人同士にもなれる、という事を教えてくれました。そして今、私には夢があります。オモ先生は、私にカサン語を教えてくれました。たくさんの本を教えてくれました。私はいつの日か、カサン人の子ども達にも、私が知っている物語を聞かせてあげたいのです。私はカサンの人達のために丈夫な靴を作る事も恐ろしい妖怪を退治する事も出来ません。それが私の出来るたった一つの事だからです」



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