第146話 カサン語大会 9
ヒサリは、寝台の上に横たわって寝息を立てているダビを見下ろしていた。骨を折っているが、適切な処置を行い鎮痛剤の注射を打たれている。このまましばらく安静にしていれば良くなるだろう。しかし、ヒサリの頭の中は様々な思いが真っ黒なとぐろを巻いていた。
自分の教えに応え、生徒達は賢く成長してきている。けれどもアジェンナの社会がこの子達を潰そうとしているのだ。野心を持たせる事はこの子達にとって不幸な事なのか。危険な事なのか。ヒサリは子供達を危険にさらしたくはなかった。しかしだからと言ってこの子達に「夢を持つな」などと決して言いたくない。
(どうしたらいいの? 私には、この先進むべき道が分からない……)
この時、静かに眠っていると思ったダビが頭を振って苦しそうなうめき声を上げた。
「苦しいの?」
ヒサリは、ダビの顔に自分の顔を近付けて言った。
「悔しい……」
いかにも負けず嫌いなダビらしい言葉だった。悔しがるのは気力がある証拠だ。この気力を奪う事こそが最大の罪なのだ。ダビは大きな目をぐりぐり動かし、やがて寝台の脇に立っているトンニの姿を目に留めて言った。
「トンニ、カサン語大会には出ないのか」
「うん。出ない」
トンニは言った。
「テルミは?」
「テルミは帰らせました」
ヒサリは口にしたとたん、声が震えた。危ないからと夢を諦めさせる事が大人のする事か? 安心して夢を育めるようにする事こそ自分の務めなのではないのか?
「マルはどうした……? あいつも……あいつまで逃げるのか? 敵を討ってくれないのか?」
「そんな事言うのはよしなさい! カサン語は敵討ちの道具ではありませんよ!」
この時、診療所の床が騒がしく鳴った。突然、ナティが飛び込んで来たのだ。
「おい、今マルがくだらねえ大会の会場に入ってったぜ。あいつ大会に出る気だぜ。見に行かなくていいのかよ」
「なんですって!」
「マルとテルミとシャールーンとメメが、今行ってるぜ!」
「マルが敵を討つ気だ!」
ダビが体を起こそうとした。
「何てことを!」
ヒサリは飛び上がるように立ち上がった。
「ダビは寝ていなさい!」
ヒサリは診療所の外に向かって駆け出した。
「先生! あいつらを引きとめないで! 先生ーーーー!!」
ダビの傷付いた体から絞り出される絶叫が、ヒサリの背中を打った。
ヒサリが会場に入り、すり鉢の中を見下ろすと、晴れ着を着た生徒達の中で、ただ一人藁を編んだ蓑を身に着け頭巾で顔を覆ったマルの姿は一瞬でくっきりと目に入った。よく中に入れたものだ! こんないい加減な所がいかにもこの国らしい。カサン本国では決してあり得ない光景だった。そして、ヒサリはさらに目を見張った。今、まさにシャールーンが前に進み出て、台の上に置かれた弓を手にしたではないか! シャールーンは、男の子でも持ち上げることが難しいカサンの弓を、ごく自然な動作で持ち上げ、まるで普段から使い慣れているかのように構えた。丁度その時、シャールーンの豊かな長い黒髪と、粗末だが彼女の褐色の肌の色を引き立たせる白いゆったりした衣服がはたはたと風に揺れた。
(なんと美しい……)
ヒサリは息を飲んだ。自分が一体何のためにこの場に来たのかも忘れて、まるで芸術家の手による伝説の女戦士の彫像のような姿勢に見入った。
(風までが、あの子を応援している)
シャールーンの放った矢は、ほぼ的の中央に当たった。ヒサリの周囲でどよめきが起こった。
(よし、やった!)
マルとテルミが肩を叩き合って少年らしくきゃあきゃあ喜んでいるのが分かった。
(あの子達、楽しんでるわ!)
五人のうち三人の生徒の射た矢は的から逸れた。ヒサリはシャールーンの落ち着きぶりに驚嘆した。
「ありゃ見世物小屋の奴隷娘だろ?」
「奴隷ってのは女でもバカ力だな!」
背後からそんな声が聞こえてきた。ヒサリはギュッと唇を噛んだ。
(言いたい者は言うがいい。彼らもじきに思い知るはずだわ。あの子達がきっと、彼らの偏見を一つ一つ打ち壊してくれる)
五つの学校のうち、的に矢を当てた生徒の学校二つが呼ばれた。勿論スンバ村第四学校も。いよいよテルミがずっと準備してきた朗読の成果を披露する時が来た。テルミがサッと立ち上がって小走りに前に出た。そして膝程の高さの壇上に上がる階段を駆け上がった。朗読する内容はテルミ自身が選んだ。彼が好きな青春の恋物語の中の場面である。
(大丈夫、何度も練習してきたんだから!)
ヒサリは思った。しかし、テルミは大勢の人の前で話をしたことなどない。どうしても緊張してしまうだろう。
テルミはこの日のためにダビから借りて着ているシャツの下から紙を取り出し、読み始めた。テルミの声はちょうど変声期であったが、無理が無く伸びやかだった。テルミの可愛らしい女の子のような容貌も、瑞々しい恋の物語にはぴったり合っていた。テルミは落ち着き払っているように見えた。ヒサリの不安はたちまち払拭された。なるほどこの子は女の子のようだけれど、産婆の卵として母親の命の危機に何度も立ち会ってきたから度胸があるのだ。それに普通の子は朗読の際緊張してどうしても早く読んでしまいがちだが、テルミはゆっくり、一語一語はっきりと読んだ。それは彼がしょっちゅうマルがカサン語やアマン語で物語をするのを聞いていて、人に話聞かせるテンポが体に染みついているからに違い無い。ざわついていた観客もやがて静かになった。「妖人の子!」などと言う人はもはや誰もいなかった。みんなそんな事など忘れている。愛らしい声で真剣に読むテルミの様子に、皆魅了されているのだ。ヒサリは、すり鉢状の客席の通路を駆け下りた。そして客席とステージを隔てる柵につかまり、朗読を終えて壇を下りたテルミに向かって声を張り上げた。
「よく頑張ったわ!」
テルミは顔を上げた。そのとたん、顔をサッと赤らめて言った。
「先生……みんな!」
ヒサリが振り返ると、そこにはそこには教え子達……ナティ、ラドゥ、アディ、ミヌー、カッシがいた。テルミが客席とステージを隔てる柵のすぐ傍まで掛けて来た。
「やるじゃねえか! テルミ!」
ナティはいきなり走って来て、があんと柵に体をぶつけて叫んだ。
「本当だ。おらにはとてもあんな風に堂々と出来ねえ」
ラドゥも言った。テルミはそれを聞くと、ちょっぴり恥ずかしそうに顔を赤らめた。ヒサリはさらに、マルとシャールーンとメメがいる方に向かって手を振り、三人を招き寄せた。そして近くまで来たシャールーンに向かって言った。
「あなたの弓の腕前には驚きました」
シャールーンは褒められても特に喜ぶ風ではなかった。しかしその表情は以前のように無表情ではなかった。汗の匂いの漂う大柄な身体からは、満足感が伝わってきた。続いてヒサリはメメの方を見た。
「次はあなたが弓を射るの?」
「俺がやる」
メメが言った。
「次の競技は何本も射る必要があります。シャールーンと交代しながらやるといいでしょう。そうしないと腕を痛めてしまうかもしれません」
「俺は平気だ」
メメはいくらかぶっきら棒に言った。女の子に負けてたまるか、という意地が見えた。
その時、ヒサリは少し離れた位置から自分をしっと見詰めているマルの姿に気が付いた。どういうわけか、マルはその位置から近付いて来なかった。自分をじっと見詰めるその表情は、イボに覆われ伺い知れなかった。ヒサリは、彼を手招きしようとして出来なかった。あの子はこの次の競技に出るつもりだろう。次の競技は詩の暗唱だ。カサンに古くから伝わる四行詩の前二行を聞いて後の二行を答える競技だ。もともとトンニが出るはずであった。ヒサリは記憶力の良いトンニにカサンの有名な四行詩を集めた競技対策本を与えて片っ端から覚えさせていた。しかし詩の好きなマルならそんな対策をしなくてもかなりの詩を暗記しているはずであった。ただしその後の、ダビの出る予定だったスピーチはどうだろう? 彼は確かに人前で物語を語る事は出来る。しかしスピーチでは自分の意見や考えを言わなくてはならない。そんな事は彼には出来まい。教室ですら自分の考えている事を言わない控え目な子なのだから……。
(テルミは確かにこの日のために一生懸命練習してきた。だからここで成果を発表したことは意味があったわ。でも、あなたは一体何のためにここに来たの? ダビの敵討ちがしたいの?)
しかしその時マルは既にヒサリ達に背を向けていた。
「くだらねえ大会だけど、あいつはすごくこの大会に出たかったんだぜ」
ナティが言った。
「なのになんであんたはあいつを出そうとしなかったんだ。あいつの力を隠しときたかったんだろ。魔女みたいに」
魔女……。そうだ。この土地にはこんな言い伝えがある。魔女は自分の特に気に入った子を他の人に触れさせないために醜いイボイボで覆い、その顔も自分以外の者が見ることが出来ないようにするのだと。
(バカな! 私はずっとあの子の才能をみんなに知ってもらうために努力してきたのよ!)
しかし、今この場で教え子に対しいきり立つわけにはいかない。
「静かにしなさい。他の学校の生徒の朗読も静かに聞きなさい。それが礼儀というものです」
三十の学校から生徒が一人ずつ弓を競い、朗読に挑んだのは弓を上手に扱った12の学校の生徒。感心する程カサン語の発音が上手な子もいたが、テルミは落ち着いて感情を込めて読んだのが良かった。かなり上位に入ったのではないか。
朗読の競技が終わると、会場の緊張がゆるみ、さざ波のようなお喋りが会場を覆った。
「しかし何であんな汚いちびがあそこに紛れ込んでるんだ? つまみ出さなくていいのか?」
ヒサリも子供達もサッと声の主の方を向いた。視線を向けられた客席の男は気圧されたようにピタリと口を閉ざした。
「言わせときゃいいんだ。今にあいつらも思い知るさ」
「……そうだな」
ラドゥの言葉にナティは頷いた。そして自分の怒りを抑えるように自分の膝の肉をグイーッとつまんだ。
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