第145話 カサン語大会 8
マルとテルミは、子供達が並んでいる最後尾についた。
その場でマルは、周りをぐるりと一度見渡した。そのとたん目が眩みそうになった。客席には先ほどよりも人が増え、空席はほとんど無い。
「ねえねえ、なんだかすごいわね! 何か面白い事始まるの!? ロロおじさんの小屋みたいに?」
背中のスヴァリがそう言って大きく左右に揺れた。
「そうじゃないよ。カサン語の大会なんだ」
「あらあ、あたし、カサン語なんか大っ嫌い! 聞きたくもない!」
「まあそう拗ねないでよ。そんな事なら君を外に置いてくればよかった」
「あ、やだあ、怒ったわねー! い・じ・わ・る! おとなしくしてるから、終わったらあたしを膝とお腹でむぎゅっとして、ぽろろんぽろろんしてね!」
(やれやれ……)
しかしスヴァリとそんなやり取りをしているうちに、マルの緊張はいつしか消えていた。しかし隣のテルミは固い表情を浮かべたままだ。マルは手を伸ばし、テルミの手を取ってギュッと握った。
子供達が並ぶ前には壇が膝程の高さの壇が置かれていて、その上に禿げ頭に眼鏡のカサン人の男の人が上がって喋り出した。マルは、禿頭や眼鏡が珍しくて、男の人をまじまじと見つめた。カサン人の男は年をとればだんだん髪の毛が少なくなる、と本で知っていたが、実物を見るのは初めてだった。アマン人は年をとっても禿げる人はほとんどいない代わりに髪の毛が真っ白になる。
続いて男の人が喋るのが聞こえてきた。普段、マルは、ヒサリ先生の話すカサン語は弓がしなうように、強くしなやかだと感じていた。しかし今聞くカサン語はごろんごろんと岩が転がっているようで、なんだか面白いなあ、と思って聞き入った。
壇上から頭の禿げた男が降りると、次に
「カサン帝国歌斉唱!」
の声がかかった。カサン帝国歌の前奏が流れ出すと、マルは興奮した。マルはこのカサン帝国歌が大好きだった。それはカサンに古くから伝わる四行詩に曲を付けたものだった。「美しいカサンの女神の住まう山裾に口づけをすれば女神の息吹は私の背中を流れ、川にたくわえられた恵の水に心満たされる、私はあなたに全てを捧げる」、そんな意味の詩である。「カサンの女神」と口ずさむ時、マルのまぶたの裏にはヒサリ先生の姿が浮かんだ。マルは目を閉じ、うっとりしながら一曲歌った。そして目を開いた時、頭巾に空けた穴から、何人かの生徒らが振り返って自分の方を見ているのが分かった。マルは慌てた。みんな重々しくカサン帝国の歌を歌ったのに、自分だけはまるで恋の歌のようにうっとりと歌った。自分の声はよく響くので、余計に目立ってしまっただろう、と思った。
「ではこれから、カサン語とカサン弓術の大会を執り行う。皆カサン帝国臣民としの誇りを胸に、日ごろの研鑽の結果を存分に発揮出来るよう頑張りたまえ。出場三十校のうち、これから五校ずつ、名前が呼ばれる、呼ばれた学校の生徒は前に出て、順番に弓を射ること。五つの学校のうち、的の中心から近い場所を射た二つの学校の生徒がカサン語朗読部門に出場することが出来る。弓を射る生徒と朗読をする生徒は兼ねることも出来るし別々の生徒が出ることも出来る」
「弓をうまく引けなきゃ朗読も出来ないなんて! おら、せっかく練習したのに!」
テルミが悔しそうに両足を地面にパンパンと打ち付けた。
「弓なんて触ったことも無いのに!」
マルはこの時、少し離れた所にエルメライとサンがいるのに気が付いた。二人もマル達に気付いたらしく、盛んに振り返ってヒソヒソと話交わしている。サンが、まるで犬に対してするように「シッシッ」という仕草をしたのが分かった。マルの体が一度冷たくなり、次に熱くなった。テルミの身体からも熱を感じた。
(テルミは今、怒ってるね。おらもだよ)
五つの学校の名前が呼ばれ、五人の生徒が前に出た。生徒達の中には弓を持ちあげただけでふらつく子もいた。五人は次々弓を射たが、誰も的に当てる事が出来なかった。それでも、二つの学校に朗読をする許可が出た。恐らく弓の構え方が良かったのだろう。
「弓を引くなんて士族様のする事だよ! ここには誰も士族様なんかいないもん。上手に引けっこないよ!」
テルミが言った。
「でも外れたけど二つの学校の子は朗読出来るみたいだよ。おら、やってみるよ! オル・カンのつもりで弓を構えて! ほら、マルがこないだ話してくれたよね。英雄の話!」
オル・カンはカサンの伝説的な弓の名手のことだ。そんな風に話すテルミはいつもの控え目でおとなしいテルミではなかった。
最初の生徒が壇上に上がり、紙を広げて読み始めた。しかしその声は震え、言葉はまるでボロ布のようにちぎれて今にも風に飛ばされそうだった。
「すごく下手糞だね!」
テルミはマルの耳元で囁いた。
「おら、あの子よりは上手にやれるよ。あああ、弓の競技なんか無ければなあ!」
「あれは『緊張』っていう妖怪にとりつかれてるんだ」
とマル。
「きんちょう?」
「そう。そいつに取りつかれたら舌が石のように固くなって体じゅうの血が雨季の川みたいに氾濫しだす。それなのに、頭の中は雲一つ無い乾期の空みたいにからっぽになるんだ。おらも何度も取りつかれたことがあるよ」
「本当!?」
テルミが目を丸くしてマルの方を見た。
次に壇上に上がったのは女の子だった。最初の子に比べたら落ち着いているように見えた。それでも早口で、声は小さく、まるで一刻も早く尋問台から逃げ出したい、とでもいうような様子だった。
女の子が壇から降りると、客席からパラパラと拍手が起こったが、朗読に感心して、というよりは大役をなしおえた彼女をねぎらうような拍手だった。それもそのはず。観客には女の子の声はほとんど聞こえていないはずだったから。
「おらも『きんちょう』に取りつかれたのかなあ、なんだか妙に体が震えるんだけど」
テルミがそう言ってマルの腕にしがみついた。
「大きく息を吸って吐いて。そしたら妖怪の魔力が少し弱まるよ。それに『緊張』はそんなに怖い妖怪じゃないし。お産の時の妖怪のように人の命を奪ったりしないから大丈夫。テルミなら大丈夫。いままで妊婦にとりつく妖怪とたくさん闘ってきたんだから」
そうは言ったものの、マルはすぐ現実に戻った。そうだ。確かにテルミは朗読はうまくやれるだろう。しかし弓がうまく引けるとは思えない。もちろん自分だって! あんな重そうな弓、持ち上げることすら出来そうにない。
(ああ、結局おらはヒサリ先生に名誉をあげることが出来ないんだ……こんなちっぽけな、ひ弱な、醜いおらじゃ……)
体から冷たい汗が溢れ、イボの間を流れ落ちた。
「スンバ村第四学校」
自分達の学校の名が呼ばれると、マルとテルミはギュッと手と手を握り合った。そして顔を上げたその時、マルは思いがけないものを目にした。体のひときわ大きな少女がマル達の後ろから現れて、弓の置かれた台の方に進み出るのが分かった。少女は迷いの無い、しかしゆっくりした足取りで台にたどり着くと、弓を手に取った。
「シャールーン!」
マルとテルミはほぼ同時に言って、互いに顔を見合わせた。
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