第144話 カサン語大会 7

 会場から少し離れた場所に張られたテントが仮設の診療所であった。

マルが仲間達の後に続いて中に入り、白い寝台が五つ並んでいるのを目にした。しかし患者は一番奥に一人いるだけで、他は空いている。寝台の脇には医師が、そしてヒサリ先生とトンニがいたため、そこに寝かされているのがダビだということが分かった。生徒達が寝台に近付くと、ヒサリ先生はサッと振り返るやいなや顔を顰めた。

「あなた達、早く帰りなさいと言ったでしょ!」

 しかしその直後、寝台から、ダビの声が聞こえた。

「みんな……来てるのか?」

 皆はその声に吸い込まれるようにダビの方に駆け寄った。マルは変わり果てたその姿に息をのんだ。顔は散々殴られたのが、赤く腫れあがっている。腕には包帯が巻かれていた。ダビは級友たちの姿を目にするやいなや、体をよじり、一度体を浮かせようとしたが、再びがっくり寝台に身を沈めた。そしてきつく目を閉じていたが、再びカッと目を見開いた。その視線はちょうどマルの視線とぶつかった。

「マル、お前が俺の代わりに出て、かたきを討ってくれ!」

「そんな事は、今考える事ではありません! ダビは安静にしておくこと! そしてあなた達は早く帰りなさい!」

 ヒサリ先生はピシャッと言った。重苦しい沈黙の底を這うかのような、ダビの途切れ途切れのうめき声。生徒達はゾロゾロと入口に向かったものの、再び入口で立ち止まり、振り返る。

「さあ、早く帰りなさい!」

 生徒達は重い足取りで外に出た。彼らの一番後ろを、テルミとマルがのろのろとついて行った。マルは、自分の脚が地面にのめり込みそうだと思った。ダビの大きく見開いた目から発せられるまなざしが、いまだに自分にまとわりついている。今、自分の体がこんなに熱いのは自分が怒っているからだ、と思った。ナティはしょっちゅう怒っている。自分はあまり「怒り」を感じることはない。でも、今自分が感じているのはまぎれも無く「怒り」だ、とマルは思った。

次に、マルが先程テントを出る前に振り返った時、ヒサリ先生がスッと涙を拭う仕草をしたのを思い出した。こんな時こそ歌物語に出て来る英雄が愛しい人にするように、自分もヒサリ先生をそっと抱きしめて慰めてあげたかった。こんな風に語りかけながら……。

(ヒサリ先生がこの事で責任を感じているとしたら間違いです! こんな事、おら達にはしょっちゅう起こるんです。おらもナティもどれだけ卑しい妖人めと石を投げつけられたことか。汚い妖人の犬め! あっちへ行け! と罵られたことか! ダビは家に火をつけられたし、ダビの弟は殴られて丸裸にされて道に転がされたこともあります。それでもダビは身の丈に合った、妖人らしい、控え目なふるまいをしようとはしませんでした。ダビがそうしたくて選んだ事です。ヒサリ先生が悪いんじゃありません!)

 その時、突然テルミがマルの傍に寄ってグイとその腕を捉えた。

「悔しいよ……おら、悔しいよ……せっかくあんなに一生懸命頑張ったのに……」

 二人がぴったりと寄り添って歩くうちに、どんどん他の生徒達から遅れた。二人が会場の横を通る時、テルミの声はほとんどすすり泣きになっていた。

「おら、嫌だよ。このままあいつらに負けたままで帰るなんて嫌だ……帰りたくないよ……」

 二人が会場の入り口を通り過ぎ、しばらく行った時、マルはピタリと足を止めた。そのままテルミの手をギュッと握って言った。

「テルミ、おらは行くよ」

 マルはそう言ってテルミの手を離し、頭巾で顔をサッと隠し、草を編んだ蓑を体の前にギュッと寄せ、向きを変え、会場の入り口に向かって歩き出した。

「マル、おらも行く!」

 マルとテルミはぴったりと寄り添い、建物の中に入った。入口から入って先にはもう一つ扉があり、その先が観客席だ。観客はみんな席についてしまったようで、二つの扉の間には既に人の姿は見えなかった。大会に出場する生徒は一体どこに行けばいいのかと、マルとテルミはキョロキョロ左右を見た。その時二人の前をカサン帝国の軍服を着た二人の男が通りかかった。一人は恰幅が良く堂々としており、もう一人は痩せて背が高かった。どちらもとても偉い人のように見えた。この時のマルはいつものマルではなかった。何か、魂を妖怪にでも乗っ取られているかのように勝手に体が動いた。マルは二人のカサン人の前に身を投げ出すように跪いた。

「私はスンバ村第四学校の生徒、ハン・マレンと申します。級友が怪我で急きょ出られなくなったために、私が代わりに出場するためにここに来ました。出場する生徒はどこに行けばいいか教えて下さい!」

 カサン人の男達は明らかに驚いた様子だった。背の高い男の方は、後退りさえした。

「私はウマ・ライです。大会に出たいです」

 テルミがマルの後に続いて言った。マルは自分の身に注がれる驚きを含んだ視線をひやひやと感じつつ、次の瞬間このカサン人の立派な人達に「出て行け!」と怒鳴られる事を思った。しかしマルが聞いたのは予想していたような恐ろしい言葉ではなく、上機嫌な、どこか温かみのある声だった。

「ハン・マレン……君はひょっとして、オモ・ヒサリ先生の生徒じゃないか?」

「オモ・ヒサリ」。その名前を耳にした瞬間、マルはサッと顔を上げて声の主を見た。頭巾に空けた穴から見える顔は明らかに笑っているように見えた。

「そうだ。間違いないね。その頭巾と蓑はイボイボ病を隠すためだろう? こんな所で何をしてるんだ。もう大会は始まってるぞ」

 恰幅の良い男はもう一人の背の高い男に会釈をし、マルとテルミを手招きして歩き出した。

(この人はおらのことを知ってる……?)

 マルは不思議に思いながら男の後をついて歩いた。廊下の突き当たりは階段になっていて、そこを下り、男が重い扉を押すと光がサッとあふれ出した。光の中には大勢の子ども達。みんな整然と並んでいた。どの子もきちんとした服装をしている。それを見たとたん、マルは自分がイボと垢と泥で覆われた体を蓑と頭巾で隠しているだけなのを思い出し、たじろいだ。しかし男がさっさと中に入って行くので、マルはテルミと共に後を追った。長いテーブルが置かれていて、その前に三人、かなり年の多いカサン人の男性が座っている。男はそのうち一人に声をかけた。

「この子達はスンバ村第四学校の生徒だが、どこに並んだらいい?」

 声をかけられた三人の男達はマルを見て驚愕の表情を見せたが、何も言わず、紐を付けたカード二枚を恰幅の良い男に渡し、生徒達が並んでいる後ろの方を指示した。

「これを首にかけて、あそこに並びなさい。オモ先生の名誉のためにも、君達は頑張らなくてはいけないよ」

 男はそのまま会場の外に去って行った。手渡されたカードには「スンバ村第四学校」と書かれていた。

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