第140話 カサン語大会 3

 夜明け前、マルは川べりに立ち、川面に映った自分の黒々とした影を見詰めていた。

(……ああ、今頃みんな晴れ着に着替えて、カサン語大会に行く準備してるんだろうな……)

 自分は晴れ着も持ってない。たとえ誰かに借りて着たとしても似合わないばかりか、イボが潰れて出た染みでドロドロになってしまう。

マルはその場にしゃがみ、しなやかに闇を湛えた川の水に手を浸した。

「何をしょげてんのよ!?」

背中のスヴァリが言った。

「カサン語大会なんてくだらないわ! カサンのお偉いさんさんにそんなに誉められたいの? 『名誉』とかいう、わけわかんない物が欲しいわけ?」

「うんん」

「分かってるわよ! あんたはあの女に『名誉』をあげたいんでしょ。でも、もしそうしたら、あんたはどうなると思う?」

「え! どうなるって……?」

「マル!」

 自分を呼ぶ、スヴァリとは違う声を聞き、マルは慌てて振り返った。そこには、木によりかかって片足立ちで立っているナティの姿があった。少し前からそこでマルの様子を見ていたのだろう。

「おい、みんなあのくだらねえ大会に出掛けて行ったぜ。お前行かねえのかよ」

「場所が分かんないんだもん」

「だからみんなで一緒に行こうって言ったじゃねえか! なのにお前いつまでたっても来ねえから」

「ごめん、聞いてなかった」

「そりゃお前、大会に出してもらえずに癪なのは分かるけどさ」

「そんな事ちっとも思ってないよ。おらも行きたい。テルミ達を応援したいし。でも着て行く服もないし、イボだらけだし……」

「行ってみて、もし入れてもらえなきゃ文句言って、それでも駄目なら帰りゃいいだろっ! 最初からダメって決めつけて行かなかったらテルミは悲しむぜ」

「そうだね……。分かった、行ってみるよ」

「それじゃ急ごう! ロロおじさんとこでいかだ借りたから」

「いかだで行くの?」

「その方が早い。お前の足じゃ歩くと時間かかるからな」

 マルはナティについていかだのつけてある場所まで歩いて行った。

「ロロのおっさん、俺がマルとカサン語大会に行くって言ったら『出血大サービスでマルのための晴れ着も付けよう!』とか言ってこれくれたんだけど、見ろよ! このボロボロの簑! どうせ捨てるはずの簑をお前によこしやがった!」

「おらのイボだらけの体を隠すにはちょうどいいよ」

マルはスヴァリを背負った背中に、草で編まれた簑を掛けた。

 マルとナティがいかだに乗り込むと、ナティは櫂を手にして漕ぎ始めた。夜明け前の静かな川面を、いかだは滑るように進んで行く。川底に眠る妖怪達の様々な鼾も聞こえていた。

「……なあ、マル」

 筏を漕ぎながらナティは言った。

「俺はお前と違ってカサン語もカサン人も好きじゃねえ。だけどカサン語は勉強したいしカサン語大会も見ときたい。なんでだか分かるか?」

「うん……」

 マルはしかしそれ以上は言わなかった。それは以前にも聞いた。ナティは悪い妖怪を退治するためには妖怪の事をよく知らなきゃいけないって思ってる。それと同じでカサン人をやっつけるためにカサン語を勉強してるんだ。マルは少し重苦しい気持ちになって黙っていたが、やがて口を開いた。

「ナティはまだカサン人のことを悪い妖怪みたいに思ってんの? ここから出て行ってほしいって思ってる?」

「まあ、どっちかっていうとそうだな」

「どうして! ヒサリ先生はおら達にいろんな事教えてくれたじゃない! カサン人がおら達にどんな悪い事をしたっていうの?」

「お前は本当にお人好しだな! あいつらが見返りも無く俺らを教育したと思うか? 企みがあるに決まってるだろ。俺らを後で散々利用してやろうっていう」

「そんな事ない! どうしてそんな風に意地悪に考えるの!? ヒサリ先生はおら達の事を思って良くしてくれるんだ! ナティがそんな事言うんなら、おらもう帰る!」

 マルは川に飛び込まんばかりの勢いでいかだの端を掴んだ。

「おい、よせ、よせよ! 泳げねえくせに!」

「嫌! 嫌! 帰る!」

 マルはしばらくの間ナティがきつく自分の足首を掴んでいる手から逃れようとバタバタもがいていたが、やがて力尽き、ぐったりといかだの上に伸びた。

「おい、聞けよ。ちょっとは俺の話を聞けよ」

 マルはそのまま首をひねってナティの方を見た。

「別にオモ先生を責めるつもりじゃねえ! 聞けよ! 俺だってな、初め……初めはお前の事を利用出来ねえかって思ったんだ。俺の子分にして、いいように使ってやれないかとか。ま、全然使えねえ奴だってすぐ分かったけどな」

マルは、ナティが不意に真剣な様子で語り出したので、驚いて相手の瞳を見つめ返した。

「おら、知らなかった。でもちっとも腹立たないよ。ナティはいつもおらに優し……」

 マルは言いかけて口を閉じた。ナティは「優しい」と言われるのも嫌がるような、妙にへそまがりな所がある。マルが黙っていると、ナティはフッと俯いた。

「なんだか癪に障るんだよ。オモ先生がお前をどこかに連れてっちまうような気がして」

 あまりに思いがけない事を言われたため、マルはあっけにとられて口を大きく開いた。喉の奥に、夜明け前の闇が下りて行く。

「ナティ、おらはどこにも行ったりしないよ。だっておら、ちっとも早く歩けないもん。すぐナティに追いつかれちゃう」

「それもそうだな」

 ナティは両手で自分の膝を強く握りしめたまま下を向き、少し笑った。

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