第136話 それぞれの進む道 6
ヒサリはしばらくの間寝付くことが出来なかった。
二人もの男が自分を襲おうとしていたのだ。恐怖感はなかなか体から抜け去らず、ヒサリはしばらくの間体を震わせていた。ヒサリは護身のための銃を携帯している。かつて、悪党が小屋のそばの叢に潜んでいる事に気付き発砲したこともある。彼らを撃つためではなく脅しのためだった。悪党は案の定、恐れおののいて逃げて行った。銃声を妖怪の叫び声だとでも思ったのだろう。悪党とはいえ、その位素朴な人達なのだ。
しかし近頃はこの村の人々も近代的な兵器に慣れてきている。それに、ヒサリにとってショックだったのは、悪党どもが小屋の扉の
すぐ近くに来るまで自分がまったく気付かなかった事だ。本当に危機一髪だった。しかしそれ以上にショックだったのは、マルを危険にさらしてしまったことだ。ヒサリはふがいなさの余り、彼に対し思わず声を荒げた。この時マルは、イボだらけの顔の奥から恨みがましい視線を自分に向けていた。今回だけではない。マルは近頃、そんな視線を自分に向けることが多くなってきた。
(どうして分かってくれないの! 私はあなたの安全を望んでいるだけなのに! 立派なカサン帝国人として、胸を張って生きてほしいだけなのに!)
ヒサリは何度も寝返りを打った。ここに来たばかりの頃は寝苦しい蒸し暑さに苦しんだものだけれども、やがてそれにも慣れた。しかし今日ばかりはどうしても眠りにつくことが出来なかった。マルに出会ってからこれまでの成長過程で彼が見せてくれた様々な表情が思い出されてならなかった。それだけではなく、とっくの昔に死んだ自分の父や祖父のことまで思い出された。父も祖父も学者だったが、父は物静かでよく書斎で書き物をしていたし、祖父は活動的でヒサリを街や海辺など色々な所に連れ出してくれた。
ヒサリは何度も寝返りを打ちながら、外を行き交う鳥の鳴き声に耳を傾けていた。
やがて、ヒサリはふと目を開いた。いつの間にか、短い間寝入ってしまっていたようだった。目の前は薄ぼんやりと明るかった。しかしそれは明らか夜明けを告げる明るさとは違っていた。ヒサリはゆっくりと体を起こした。自分の書き物机の上にランプが灯っていた。そして一人の青年が、書き物机の前に座ってじっとヒサリの方を見ていた。ヒサリはあっけに取られて相手の顔を見返した。知らない男が勝手に自分の部屋に入り込んでいる。それなのに、どういうわけか少しも恐怖心は湧かなかった。それどころか昔からの親しい人に再び巡り合ったような懐かしさを感じた。カサン人ではない。だとするとアマン人か? しかし彼はどこか、そういった事を超越した神秘的な表情をしていた。
「ヒサリ先生、気付きましたか?」
相手はそう言ってにっこり笑った。その微笑みは美しく、ヒサリも思わず相手にほほえみ返していた。
「あなたは……どなた?」
相手はすぐに答えず、ヒサリの顔を真剣に見つめ返していた。
「分かりませんか……」
「どこかで会った気がするんだけど……」
「私は……マルの兄です」
「まあ、マルの……お兄さん……!」
ヒサリは驚きに目を見張った。
「ヒサリ先生が以前会った事のあるオムーとは別の兄です。私はマルと似ていて、あいつの考えている事は何でも分かるんです」
「だからどこかで会った気がしたんですね」
ヒサリの目から涙がこぼれた。
「マルはきっと私のことを恨んでる……私があの子にあまりにきつく当たるから……でも、私はただあの子の才能を伸ばして立派な人生を歩んで欲しいだけなのに……」
涙はどっと溢れ出した。袖で拭っても拭っても止まらない。青年の声は、そんなヒサリの体を優しく撫でるように響いた。
「なあに、あの子はまだほんの子どもです。今にヒサリ先生の思いが分かる日が来るでしょう」
「本当……? 本当に?」
ヒサリの目から溢れる涙はついに床を濡らした。青年は不意に立ち上がったかと思うと、ヒサリの目の前に跪いた。彼の息がヒサリの髪にかかる程近くなった瞬間、ヒサリは思わずその胸に飛び込みたいと思った。それは恋人のアムトにすら感じたことのない感情だった。ヒサリが涙を拭ってもう一度相手の顔を見た。その神秘的な優しい瞳はこの国の森のように深かった。
「あの子がどうやったら幸せになれるかをずっと考えていたの。きれいな服を着てレンガ造りの立派な建物の中で働くのが嫌なら、先生になったらいい。あの子が子ども達にアマン語を教えて私がカサン語を教える。そしてあの子は私や子ども達に素晴らしい詩や物語を書いて楽しませてくれる……そんな未来を思ったりするの……すごくばかげた空想だけど……」
「それはとても良い考えです」
青年は言った。
「マルはきっと、そうしたいと思うでしょう」
「ヒサリ先生がここでカサン語を教え、マルがアマン語を教えるのです。ここでずっと」
「でもそういうわけにはいかないわ。優秀な生徒はカサン帝国の財産よ。カサン帝国によって運命が決められてしまう!」
「あの子はヒサリ先生以外の誰の言う事も聞きませんよ。なぜならマルはヒサリ先生のことを……」
ヒサリは息を詰めて相手の顔を見返していた。
「愛していますから」
ヒサリはこの瞬間、自分の心臓が弾けて飛び散り、熱い血が全身を駆け巡り始めたように感じた。ヒサリはサッと顔を両手で覆って叫んだ、
「ダメよ! ダメダメダメ! そんな事言わないで! 私を苦しめないで! お願いだから!」
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