第135話 それぞれの進む道 5

 夜が更け、マルがヘトヘトの体を引きずるように馬小屋に戻る途中、ヒサリ先生の部屋から明かりが漏れているのが見えた。マルは思わず足を止め、その光に見入った。

(あの光の中で、今、ヒサリ先生は何かをしてるんだろう……)

幼い頃からどれ程夢見たことか! ヒサリ先生と同じ部屋で食事をし、本を読み、作文を書いたりお話をしたり、逆にヒサリ先生はというと、教室とは違うすっかりくつろいだ表情で、他の人にはしないような話を自分にしてくれるのをそばで聞いている。時にはヒサリ先生の手を握り、髪に触れる、そんな日々が来る事を……。

自分が考えられる限り最高の夢の形がそれだった。決して抱いてはいけない夢だと分かっていた。先生と生徒の間には、絶対に乗り越えてはいけない線が引かれているのだ。しかしその願望は苦しい程にマルの頭にしがみついて離れず、彼を苛むのだった。

すぐに自分の部屋のある馬小屋の中に入ってしまう気になれず、少しでも気持ちを落ち着かせようと、馬小屋の周りをぐるぐる歩き始めた。

 その時だった。馬小屋の奥の鬱蒼とした草の茂みから、まるで邪悪なお化けが囁き交わしているような声が聞こえてきた。マルはハッとして足を止めた。

「カサン人の女が一人であそこにいるらしいぜ」

 それは妖怪などではない。紛れも無く、人間の声であった。

「若い女だってな」

「でもカサン人なら武器を持ってるだろう?」

「いや、それらしい物は持っちゃいないらしいぜ」

「カサンの女をやったら罪が重いんだろ?」

「つかまればな。でも顔を隠してりゃこっちが誰かばれやしねえ」

 声は、ガサガサと木の葉の音を立てながらゆっくりと動いている。マルは音と声を追って歩いた。普段は臆病なマルだったが、声を聞いた瞬間、怒りの余り我を忘れていた。

(ヒサリ先生を汚す奴は許さない! 絶対に!)

 これまで感じたことのない激しい感情で、体がどうかなってしまいそうだった。一歩一歩、今にも発火しそうな体を抱えて、声を追った。、

(許さない! 絶対許さない!)

 やがて、ヒサリ先生の部屋から漏れる明かりによって二人の男の輪郭がはっきり見えた。マルは黙って二人の背後から駆け寄ると、二人のうちの一人にしがみついた。凄まじい悲鳴が上がった。それはマルの全身に鳴り響いた。

(化け物だぁぁぁぁ!! 放せ! 放せーー

!!)

 マルのしがみついている男は激しく暴れたが、マルはますます全身に力を込めた。もう一人の男が、自分のしがみついている男を助けるためにおらを切り刻むかもしれない!  それでもいい! おらは死ぬんだ! 血に染まったおらの体を見てヒサリ先生は泣くだろう。そしておらの体をメメとネビラおばさんが焼いてくれるだろう、骨と灰になったおらの体は川に流される。ヒサリ先生は、川辺に座って流されてゆくおらに向かって言うだろう。「ああなんて勇敢な子! 私はあなたのお陰で命が助かった! あなたは私の永遠の勇者! あなたの事は生涯忘れない!」そして、ヒサリ先生の流した花と宝石のような涙は、おらの骨と灰に届き、共に光る川面を渡って海まで行くんだ……。

 しかしマルの体は切り刻まれる事もなく、あっさり男に振りほどかれ、地面に転がされていた。扉がバタンと開き、マルの体にサッとランプの明かりが降り注いだ。

「何をしているのです!」

 恐る恐るゆっくりと開いたマルの目に、ヒサリ先生の引きつった白い顔が映った。マルは小声でようやく言った。

「悪い男が二人、先生の部屋に押し入ろうとしてたんです……」

「それで、あなたは何をしようとしてたんです? まさか男達と闘おうとしてたんじゃないでしょうね」

「…………」

「何という……何という愚かな事を!」

「でも、何もしなければ先生が……!」

「でもも何もありません! あなたは子どもなんです! すぐに逃げるべきなんです! 自分の身を守る事があなたの務めです! 私はあなたに守ってもらう必要などありません!」

 マルの目から涙が溢れ出し、イボの間をジグザグに流れて落ちた。先生のために死ぬことも出来ず、ただ叱られて終わりだなんて! なんてバカなおら! マルはそのまま立ち上がり、今すぐにでも地面にのまれてしまいたい思いで馬小屋に向かってふらふらと足を運んだ。

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