第137話 それぞれの進む道 7
そのまま、どれ程の時間がたっただろうか。ヒサリが目を開くと、指の隙間の向こうは既に明るかった。手を離すと、部屋は開いた窓から差し込む朝の光に包まれていた。
(夢だったんだわ……)
ヒサリの頭の中はいまだクラクラしていた。マルの兄だという青年に、自分は抱かれそうになったのだ。もしあのまま抱かれていたら、自分は永遠に目覚めず、ここに戻って来ることも出来なかったのではないか。あのまま抱きしめられていたら、この先どんな顔をしてあの子の教師を務めればいいというのか。
ヒサリは寝台から体を起こし、時間を確かめた。自分がいつも起きる時間より一時間も早かった。水場で顔を洗おうと、部屋の扉を開けた。そのとたんアッと言って扉を閉じた。マルが少し離れた位置に立ち、小屋の方をじっと見詰めているのだった。ヒサリはこの瞬間、自分の心臓がせり上がるのを感じた。そしてなぜかこの時、マルの事を少し恐ろしいと感じた。ヒサリは素早く扉を閉じた。乱れた長い髪をきつく頭の後でまとめると、大きく息を吐き、再び扉を開けた。マルもいきなり扉が開き、気が動転したのだろう。既に背中を向けて自分の部屋のある馬小屋に戻りかけている。
「ハン・マレン!」
ヒサリは声をかけた。マルはゆっくりとヒサリの方に体を向けた。
「こちらにいらっしゃい」
マルは、ヒサリに怒られるのではないか、とでもいうような足取りでヒサリの方に近付いた。
「あなたがもし、レンガ造りの建物で働くのが嫌だというのなら、高等学校で教員の免許を取ることが出来ます。アジェンナのどこでも通用する免許です。それを取ればあなたは子ども達に教えることが出来ます。あなたならカサン語とアマン語のどちらも教えられるはずですよ」
「私が先生に……」
マルは小さく呟き、黙った。ヒサリの目には、マルの心が少し動いたように見えた。マルは根気強くカッシの勉強にも付き合うし、ナティの双子の弟達やテルミの妹達にも自分の知っているお話を聞かせてやったりしている。教える事に向いているのではないか。
「あなたが望めば、ここで教える事も出来ます」
「ここで……」
「私がカサン語を教え、あなたがアマン語を教える事も出来ます」と言いかけたとたん、ヒサリは今朝見た恐ろしくも甘美な夢を思い出した。ヒサリは一度固く口を結んでからこう言った。
「私がいずれここを去ることになれば、あなたがここで私の代わりに教える事も出来ます」
「オモ先生がここを去るんですって!」
「まだそうと決まったわけではありません。先々の事は分からない、と言ってるんです。この国が私をいらない、と言えば、私は速やかにここを立ち去ります」
「そんな……!」
マルは小さく、しかし鋭く息を飲んだ。
「私は……」
「当たり前の事を言っただけです。だからここのあなたより幼い子達のためにも、あなたは高等学校に行って、自分に出来る事をするべきです。あなたが一番、カサン語もアマン語も出来るのですからね。あなたの才能はあなただけのものではありません。たった三年間のことです。手紙のやり取りも出来るし、休みの日に車やオート三輪を雇ってここに戻って来る事も出来ます」
マルは立ったままじっとヒサリの顔を見詰めていた。ヒサリは、あともう一押しすればマルは高等学校に行く事を承諾するのではないか、と思った。
「今すぐに決める事はありません。まだ時間はあるので、じっくりと考えてみたらいいでしょう」
「はい」
マルは頷いた。
ヒサリは自室に戻った。この日は学校は休みだったが、しなければならないことが山積みだった。来月はスンバ村及び周辺の四つの村の高等学校の生徒達によるカサン語大会が開催される。カサン語を学ぶ現地の生徒らが朗読やスピーチによってカサン語の技能を披露するのだ。各学校、その規模に応じて出場出来る人数が決まっている。ヒサリの学校では三名だ。ヒサリは生徒達の中からダビ、トンニ、テルミを出場させようと考えていた。言うまでもなく、カサン語能力にかけてはマルが一番だ。文才があり、物おじしないナティもスピーチなら一番うまくやれそうだ。しかしナティは絶対に大会に出たがらないだろう。そしてマルのようなイボだらけのみすぼらしい子はそもそも会場に入ることすら出来ないかもしれない。なぜなら会場にはカサン語教育界の重鎮やカサン語新聞の記者、著名な文人も視察に訪れる。イボイボの子を会場に連れて来るだけで彼らの不興を買うだろう。しかしヒサリはこの日にそういった偉い人達に直に会い、マルへの進学費用や病気を治すための治療費を支援を、頼み込むつもりであった。これまでにヒサリは何度もカサン文化部隊や軍本部に報告書と共にマルの書いた作文をきれいに清書し直したものを送っていた。しかしなしのつぶてであった。当然だ。こんな見事なカサン語の文章を植民地アジェンナの片田舎の年端も行かぬ少年が書いたと誰が信じられよう!? しかしいよいよカサン語教育関係の重鎮達に会えるのだ。彼らにダビやトンニやテルミの優秀さを見てもらい、さらに彼らを凌ぐ才能を持つ生徒がいる事、その生徒は醜いイボイボ病の子である事を告げた上でそっとマルに会ってもらうのだ。
ヒサリはそんな事を思いながら、寝台の枕元に置いた箱を開いた。これまでマルがヒサリにくれた「おみやげ」が入った箱である。それはズシリと重いが、その内容はさらにずっと重い。マルがこれまで届けてくれたスンバ村の夕日も川のせせらぎも人々の営みもそこに入っているのだ。ヒサリはそれら全てを慈しむようにゆっくりと箱を撫でた。
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