第132話 それぞれの進む道 2
ヒサリは翌日、授業を終えるとマルの方に近付き、夕食を食べ終えたらヒサリの部屋に来るように言った。
ヒサリはダビとトンニのための補習を終え、部屋に戻りダヤンティの用意してくれた夕食をかき込んだとたん強烈な眠気に襲われた。ヒサリはいつしか机につっぷして眠り込んでいた。
扉をコトコトと叩く音がして、ヒサリは素早く顔を起こした。扉を開けるとマルが暗闇の中にそっと佇んでいる。ヒサリはマルに中に入るように言った。
「はい……」
マルはそう言って部屋の中に入り、示された椅子に座った。マルはそのままじっと下を向いていた。イボらだけで醜い容姿ながら、ほがらかで天真爛漫な彼は、そこにいるだけで周りをパッと明るくするような少年だ。しかしそんな彼に、このところ急に影が宿ったようであった。彼の成長がそうさせたのだろう。思春期に入った少年には当然、子どもの頃のような無邪気さからは卒業する日がやって来る。
(バダルカタイ先生のことがあるのかもしれない……)
ヒサリは、マルがどんな作文を書いてきても内容については決して否定するまい、と心に決めていた。天才が己の才能を存分に発揮出来るようにするためには、それが一番大切だと肝に銘じてきた。しかし、そんなヒサリにも、どうしても見逃せない記述が彼の作文の中に増えてきていた。それは例えば、「カサン人が妖人達を使って森の木々を伐採し過ぎたために、森に住む邪悪な妖怪が怒って村を荒らすようになった」、といった内容である。それはスンバ村にも潜んでいると言われる反カサン勢力やゲリラによって流された誤った情報だ。彼らはカサン帝国による平和なアジェンナ統治を攪乱しようと企てている。純粋無垢なマルが、こんな邪悪な輩から聞いた話をうのみにして作文に書いてきた事に、ヒサリは少なからず衝撃を受けた。
(これは放っておけない……もしやニジャイの仕業だろうか?)
ヒサリは、マルの兄を送り込んだ少年矯正所にニジャイを送れないものか、という思いが頭をかすめた。しかしすぐにそれは難しい、と思い返した。両親を失ったマルの兄と違って、ニジャイにはこの村でかなり顔のきくビンキャットという父親がいるのだ。ヒサリはその作文を受け取った翌日、思い余って、バダルカタイ先生に、「マルの作文の内容が気がかりだ」と告げた。するとバダルカタイ先生はあっさりと、自分がマルに森の木々の伐採の件を告げたことを認めた。ヒサリは泣いてバダルカタイ先生の裏切りをなじった。一体、カサン人がアジェンナの民にどんな害悪をなしたというのか。妖人の子らが読み書きが出来るようになった事がそんなに腹立たしいのか。ヒサリは強い言葉でバダルカタイ先生に抗議した。するとバダルカタイ先生は、
「真実を語ることを許されないなら私ここを去ります」
と言った。それに対し、ヒサリは
「あなたがマルに語った事は嘘偽りです。考えを改めてくれないのであれば辞めてください」
と言った。
「分かりました」
バダルカタイ先生はそう言った。
ヒサリはそれでも信じていた。バダルカタイ先生は頑迷な老人ではない。平民階級のバダルカタイ先生は、最初は明らかに妖人の子らを見下していたものの、だんだんと妖人の子らに情熱を持ってアマン語の読み書きを教えてくれるようになった。必ず考えを改めて明日も教室に来てくれると。
しかし、バダルカタイ先生は再び現れる事は無かった。決して自分は無理矢理バダルカタイ先生を辞めさせたわけではない。しかしマルはそうは自分がバダルカタイ先生を辞めさせたと思っているのかも……。そんな思いを抱きつつ、ヒサリは努めて冷静にマルに尋ねた。
「あなたは将来何になりたいのですか? まさか物乞いをして生きていくつもりではないでしょうね」
マルは少しの間下を向いていたが、やがて顔を上げ、ヒサリの方を見ながら言った。
「今は市場や辻で歌物語をしてもほとんど聞く人もいないし、お金ももらえないと言います。ラジオや新聞や雑誌がその代わりをしているからです。だから私はラジオや新聞や雑誌の仕事がしたいです。それで少しでもお金が稼げたら、先生に恩返しがしたいです」
ヒサリは頷きながら聞いた。自分の願望をあまり口にする事の無いマルからそれだけ聞けたら十分だった。マルのカサン語の実力なら新聞記者や雑誌記者も十分目指せるだろう。ラジオの原稿を書いたり、また声が良いから原稿を読む仕事も出来るかもしれない。しかし、やはり最大の問題は彼の全身を覆う忌まわしい皮膚病だった。
「あなたの希望はよく分かりました。あなたがそういった仕事につくためにはやはり高等学校を出なければなりません。それから新聞社やラジオ局というのはあなたがアロンガで見たようなレンガ造りの立派な建物の中に入ってます。そういう所で働くためにはイボイボ病を治し、きちんとした着物を着て行かなくてはいけません」
「そうなんですか……」
マルは驚いたようだった。どうやら、新聞やラジオの仕事は自分のような貧しくみすぼらしい格好をした者がしていると思い込んでいたらしい。
「それなら、何か違う事を……」
「夢を諦めることはありません。誰かあなたを支援してくれる人を探すつもりです」
マルは首を振った。
「いいえ、そんなこと……」
「どうして!」
「私にはそこまでしてもらう価値はありませんから……」
ヒサリはカッとなった。
「あなたの価値をあなたが勝手に決めてはなりません! それから私への恩返しなど一切必要ありません! あなたに教育を授けたのは私ではなくカサン帝国なのです。恩返ししたければ自分の持てる能力を最大限活かしてカサン帝国のために何が出来るか考えなさい!」
ヒサリの言葉を聞いたとたん、マルは体を竦ませた。繊細なマルにこんな強い言葉を投げるのではなかった! ほら、もうこんなに固くなってるではないか。こうなってしまった以上、次にどんな言葉をかけていいものかヒサリには分からなかった。
「もう帰ってよろしい」
するとマルはすばやく立ち上がって、逃げるように部屋から立ち去った。
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