第129話 人面獅子退治 8

 バダルカタイ先生の家は、簡素だが堅固な作りの高床式の家だった。

バダルカタイ先生はやもめで、今一人暮らしだと聞いている。一人で生活するには大きすぎる程の家であった。いくら招かれたからといって、妖人でイボイボ病の自分が勝手に上がり込む訳にはいかない。マルは入り口の下に立って、

「先生! バダルカタイ先生!」

 と声を上げた。ほどなく扉が開き、バダルカタイ先生が姿を現した。

「今日、ナティはここに来ることが出来ませんでした。村に恐ろしい妖怪が出て、その退治に行ったんです。それで怪我を負ってしまいました」

「分かっておる」

 バダルカタイ先生は頷いた。

「あの子は勇敢な子じゃ。だからここに呼んだのじゃ」

 マルは思った。バダルカタイ先生はアマン語の辞書を作っているらしい。どうして「勇敢」なナティをここに呼んだのだろう? 妖獣と闘う事と辞書とどう関係あるのだろう? しかしいずれにせよ、大人達から嫌われている乱暴で喧嘩っ早いナティの良さをバダルカタイ先生が分かっていることが嬉しかった。

「マル、お前がこれから目にするものを決して誰にも、オモ先生にも話さないと約束するなら見せてやるが、どうだ」

「…………」

 マルはこれまで度々教室で目にした、ヒサリ先生とバダルカタイ先生のヒリヒリするようなやり取りを思い出していた。「そんな約束は出来ません」と思わず口にしかけた。しかし、それを知りたい、という気持ちが勝った。もしそれがヒサリ先生を傷付ける事であれば、先生に言わないまでも、何かヒサリ先生を守る方法を考えることが出来るのではないか。マルは頷いた。

「上がりなさい」

 マルはバダルカタイ先生の後について、そっと階段を上がった。中に入ると、そこの床一面に、アマン語の文字をびっしり書いた紙が整然と並べられていた。マルは感嘆のうめき声を上げた。そしてたった今気が付いた。カサン語の辞書なら自分も一冊持っている。しかしアマン語の辞書はいまだ存在せず、そのことを疑問にすら思ってなかった事を。

 マルは興奮してしゃがみ込み、そこに描かれた文字を読み始めた。しばらく夢中でそうしていたが、やがて黙って自分を見下ろしているバダルカタイ先生の方にサッと顔を向けた。

「アマン語の辞書を作っている事を、オモ先生に話してはいけないんですか?」

「そうじゃ」

「どうしてですか!?」

「それは、オモ先生がカサン人だからじゃ」

「…………??」

「カサン人の最終的な目標は、我々から我々の言葉を奪い去る事じゃ。他のカサン語の学校ではアマン語を使う事は一切禁じられている事をお前も知ってるだろうね」

「はい。でもヒサリ先生は……」

「君の言いたい事は分かっておる。確かにヒサリ先生は立派な先生じゃ。私にアマン語を教える事を許しているのじゃからな。しかしそれでもお前の頭からはもうだいぶアマン語が消えかかっておるのではないか? お前は昔、いつでもどこでもアマン語で歌っていたではないか。それが今ではさっぱり歌わなくなった」

 マルはそれを聞いて驚いた。アマン語の歌を人前であまり歌わなくなったのは自分が分別がついてきたためだ。歌物語はあくまでも人を楽しませるためのもので、滑稽であったり卑猥だったり、あるいは悲しいものを大げさに歌い上げたりする低俗なものだ。今でも誰かに請われたら歌うけれども、バダルカタイ先生のような偉い人の前で許しも無く歌うようなものではないと思っていた。

「歌物語は民族の心じゃ。しかし私はお前に以前のように歌えとは言えぬ。歌うことは危険なことになりつつあるのじゃ」

(危険……?)

「北部のタガタイやマラータイといった大都市では、もう街でお前のような物乞いの姿を見ることは出来ぬ」

「歌物語が禁じられているのですか?」

「そうではないが、カサン人がそれを根絶やしにしようと巧妙に仕掛けておるのじゃ。例えばカサン語の読み物を広めて人々が昔ながらの歌物語に興味を持たぬようにする。あるいは歌物語を広めていた物乞い達を別の仕事につかせる。例えば汽車を走らせる道を作る仕事をさせるといったことじゃ」

 マルは下を向いた。バダルカタイ先生の話には説得力があった。とはいえヒサリ先生が自分からアマン語を奪おうとしているなんて思えない。実際に、カサン語の授業を抜け出し、年老いた物乞いに歌物語を聞きに行くのを許してくれたじゃないか……!

「それからお前は、なぜこのたび人面獅子が急に森から農地に出て来て暴れ回るような事をしたか分かるか?」

「森が以前に比べて変わったからですか」

「そうじゃ。そしてその理由は森からたくさん木を伐り出したからだ。そしてそれをしているのがカサン人、その手助けをしているのが、我が国の妖人達なのじゃ! 情けない事に!」

 それを聞いたとたん、マルの体は震えた。尊敬するバダルカタイ先生から出た言葉には、カサン人や妖人に対する侮蔑が感じられた。マルは自分の体が熱くなってくるのを感じた。思わず下を向いたマルの頭上に、バダルカタイ先生の言葉がジリジリと注がれた。

「いいかね。妖人とは決して、生まれながらに卑しい者ではない。人は皆その行為によって卑しくなるのじゃ。お前は妖人の生まれで貧しく、醜い姿をしているといっても、心まで卑しくなってはならぬ」

 マルは、バダルカタイ先生の言う「人は行為によって卑しくなる」という事は理解出来た。それはヒサリ先生も常日頃言っている事だ。しかしその「卑しい事」とは、盗んだり人を騙したり傷つけたりする事だと思っていた。それがまさか、カサン人の協力をしたり森の木を伐り出したりする事だなんて! それはスンバ村を豊かにする事だとずっと思ってきた。実際、たくさんの妖人達が、妖獣を巧みに操って沢山の木材を運び出す事に成功し、とても豊かになったのを目にしている。でもそのことによって森が壊れ、人面獅子が人里の下りて来て暴れ回るようになったとしたら……。

「誰もこんな事になるとは知らなかったんです。おらはこの事をみんなに伝えます」

マルは混乱したまま、絞り出すように口にした。

「フォッフォオッフォッ」

 バダルカタイ先生がくぐもった笑い声を立てた。

「お前は人が良い。まさにアマン人そのものじゃ。しかしその人の良さこそが仇になるかもしれんぞ。お前は言葉を使う才能がある。そこに目をつけられ、邪悪な心を持った者に利用されたとすると、恐ろしいことになる。人面獅子が暴れ回るどころではない。まさに村や国が亡びるようなとてつもない事が起こり得るのじゃ」

「まさか、そんな……!」

「そなた自身の力を恐れよ。決して小さく見積もってはならぬ。言葉の力とは、善にも悪にも強大じゃ。カサンの全てが悪いとは言わぬ。オモ先生のように良い先生もおる。しかしオモ先生はカサン人じゃ。カサンとアジェンナの利益がぶつかれば必ずカサンにつく人じゃということを忘れてはならん。そしてカサン人からの間違った要求には断固として拒否するのじゃ。……さあ、今日は村が一大事から救われた大切な日じゃ。皆の所に戻り一緒に祝うがよい」

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