第128話 人面獅子退治 7
酒を飲み、急に力を失った人面獅子は大勢の人に突かれ、刺され、切られ、ついに息の根を止められた。
人面獅子に群がっていた人々は、今度はぞろぞろとナティの方に移動して来た。マルはナティが樽の縁に立って脱ぎ捨てたシャツが落ちているのに気が付き、かけてやろうとしたが、傷口に包帯を巻いているトンニに「邪魔だ」という風に制止された。
「ダニーのせがれだな」
誰かがぽつりと言った。
「息子じゃねえ、娘じゃねえか」
「そういえばダニーが昔言ってたよ。娘は二人いて、下の娘は元気がいいってね。下の娘はとうに死んだと思ってたが、この子の事か」
マルはその言葉を聞きながら、母ちゃんが歌物語にして聞かせてくれたナティの母、ダニーの武勇伝を思い出していた。
(おらもいつか、今日見た事を歌にして人に伝える日が来るんだろうか……)
しかし、大切な友達がこんな目に遭って、マルの心も体もただ震えるばかりだった。そんなマルの目に、シャールーンの姿が映った。人面獅子の返り血を浴びて髪からも服からも赤い滴がしたたり落ちている。その凄惨な姿を目にした瞬間、人々は一瞬静まり返った。やがてどこからともなくこんなヒソヒソ話が聞こえてきた。
「なんて小娘だ!」
「ありゃ芝居小屋の踊り子だろ?」
「なんてぇ怪力だ! どう見ても踊り子って柄じゃねえな」
シャールーンがゆっくり、ヒサリ先生やマルがナティの傍にしゃがんでいる所まで歩いて来た。戦いを終えた、その芒洋とした表情を、真昼の強い日差しが輝かせている。その瞬間、ヒサリ先生はそれまで抑えていた感情を吐きだすように言った。
「あなた達! 一体なんて事を! もう二度とこんな事は許しません!」
そのまま地面にうつ伏せになったかと思うと泣き崩れた。その様子は、厳しく強い先生ではなかった。まるで、これ以上無いという程の恐怖から逃れたばかりの少女のようだった。マルは息を詰めて先生の様子を見ていた。
ああ、出来ることなら、今すぐ目の前のヒサリ先生の背中を抱え、その耳に「ヒサリ先生」と呼びかけたい。背中を撫でながら「もう何も怖くありませんよ」と優しく語りかけたい……! しかしそれをする事は自分の役目ではないのだ。自分はただの幼い子どもに過ぎないのだから。マルは呆然とその場に立ち尽くしていた。
やがてラドゥがヒサリ先生の傍に寄って言った。
「川向うに戻るのは大変です。近くに私の家がありますがら、今日は泊まっていきませんか。母の食事はおいしいですよ」
しかし、ヒサリ先生が立ち上がったその時、どこからともなく村長が現れて先生に近付いた。子供達はサッとヒサリ先生から離れた。村長は自分達妖人が近付いてはいけない偉い人なのだ。村長がヒサリ先生に何か言う。そのままヒサリ先生は村長について馬車に乗り込んだ。
(ヒサリ先生! ああ、ヒサリ先生が行ってしまう……)
がっくりと頭を垂れたマルの耳にトンニの声が聞こえた。
「しばらく先生は村長の屋敷で静養するんだろう。先生はカサン人だから、先生にもし何かあったらきっと村長は処罰されてしまう」
ヒサリ先生が恐い目にあったこんな日の夜こそ、ヒサリ先生の傍にいてあげたかったのに、と思うと悲しくてマルの目に涙が滲んだ。
ヒサリ先生は村長と共に行ってしまった。農民達も帰って行った。マルが振り返ってナティの方を見ると、ナティはいつの間にか目を開き、辺りの様子をじっと眺めていた。
「おい、ちび、生きてるか?」
一人の男が尋ねた。
「当たりめえだろ。この位の事で俺は死にやしねえ」
ナティが言った。
「お前が女の子だって事は初めて知ったぜ。ちっとも女の子らしくねえから人面獅子も食うのをためらったんだろうなあ」
「うるせえ。お前なんか女の子よりも臆病で後ろの方でおしっこちびったたくせに。そこのシャールーンを見てみろよ」
そうは言ったものの、ナティはいつものように喧嘩腰ではなく、疲れ切った様子で目を閉じた。
「ダニーの血だな」
別の誰かが言った。しかしナティは目を閉じたまま返事をしなかった。やがて、そっと目を開き、マルの顔を見ながら呟くように言った。
「……ダニーの血? そんなもん関係ねえ。うちの兄貴は二人共てんで弱虫じゃねえか。俺はお前の母ちゃんからダニーの話を聞き過ぎておかしくなったんだな」
「おらの母ちゃんのせいなの?」
「多分な」
マルはナティにこんな危ない事はしてほしくなかった。母ちゃんだってそうだろう。だけど母ちゃんの歌物語のせいでナティがこんな危ない事をしたんだとしたら……。マルは母ちゃんが時々「歌物語は恐ろしいものだ。時に人々を狂わせ、とんでもない事をさせてしまう事がある」と言っていたのを想い出した。マルには、その事の意味が今初めて分かった気がした。
「でも、ダニーの話を聞いたナティが勇気を出したから、村は助かったんじゃねえか」
ラドゥの温かい声がマルの耳に届いた。けれどもマルは黙っていた。もし母ちゃんが生きてここにいたら、一体何て言うだろう?
「スヴァリはどう思う?」
普段お喋りのスヴァリは肝心なこんな時には黙ったままであった。
農民達が帰ってしまった後、残った妖人達で人面獅子の死骸をどうするかを話し始めた。何しろ誰一人こんな大きな妖獣を運んだ事が無いのだ。
「解体して運ぶしかないだろうねえ」
トンニの父さんが言う。
「なあに、あのバケモノをさばく位のことでしたら、うちの女房とせがれとわたしとでアッという間にやってしまいますよ。ただ問題は、ここが平民様の土地だっていうことで……」
妖獣の死骸を解体するなどという汚らわしい行為は平民様の暮らす地域でやるなど御法度なのだ。
「やれやれ、平民様はこの期に及んでそんな事言うかね?」
トンニの母さんが呆れたように言った。
「気にすることはねえ。農民達には俺が話しをつける。みんなもそうばかじゃねえ。きっと分かってくれる」
ラドゥは言った。
「へえ、農民達がお前の言う事を聞くなんて、お前も偉くなったもんだな」
ナティは茶化すように言った。
「そりゃラドゥはカサン語学校に通っているから。知識を持っている人の言う事は、みんな聞くさ。知識のある人が一番偉いし、尊敬される」
とトンニ。
「そうとは限らねえ」
とラドゥ。
「知識ってのも使いようさ。いくら知識があっても、みんなのために使うんじゃなきゃだめだ。川のこっち側にも、カサン語の学校に通ってる子どもはたくさんいる。村長の子のエルメライもな。でもこっちの学校では自分が偉くなることしか教えねえ。ヒサリ先生は、俺達がこの先みんなを助けるために必要なことを教えてくれる」
「へーん、どうだかねえ」
ナティが鼻を鳴らした。
「少し黙ってた方がいいぞ。喋って体力を消耗するのは危険だ」
トンニが言った。
「ああそうだ、マル、俺はバダルカタイ先生との約束をすっぽかしちまった。ちょっとバダルカタイ先生の所へ行って謝ってきてくれないか」
マルはナティに言われて、ようやく今日の先生との約束を思い出した。
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