第120話 恋人アムトの訪れ 6
その時、ヒサリは部屋の入口の扉がほんの少し開いているのに気が付いた。しかも隙間の向こうに人が動いている気配が見える。
「ちょっと待って! 誰かいる!」
アムトは大きく体を震わせ、サッとヒサリから離れた。ヒサリが扉を大きく開け放つと、そこから逃げ去ろうとするマルの姿が見えた。
「一体そこで何をしてるのです!」
「今来たんです。あのう、メメから頼まれた事があって」
ヒサリは、彼の「今来た」というのは嘘だ、と、とっさに思った。少なくとも自分がアムトと抱き合っている所は見たはずだ。そう思うとひどく決まり悪くなった。こんな所でアムトと話し込むのは良くない。ヒサリは扉を閉じると、アムトの方を向き直って言った。
「その事はまたいつか……。ごめんなさい。こういう事はすぐ村の噂になるから」
ヒサリはアムトが寝台に腰をかけると、扉を開け、階段を降り、少し離れた所に立っているマルの傍に寄った。ヒサリは、自分の体が少し震えていると感じた。ヒサリは一度マルの顔を見た後、サッと視線を茂みの方に移して言った。
「メメが一体あなたに何を頼んだというの?」
「先生は今日、アジェンナ人でカサンの士官学校に入った人の話をしてました。メメに、自分もカサンの軍隊に入れるのかどうか聞いてほしいって言われたんです」
「まあ……」
ヒサリは驚いた。メメはシャールーンと同様、口がきけないのかと思う程無口な少年だ。これまで自分の希望らしき事をヒサリに言ってきたことは一度も無い。
「なぜメメは私に直接聞いてこないの?」
「そんな事、聞いていいのか分からないからって」
ヒサリには、メメが自分の希望を口にするのをためらった理由はなんとなく分かった。アジェンナでは、いまだ軍務は高貴な士族階級の者の務めとされているからだ。妖人の彼が軍に入るなど、普通ではあり得ない事なのだろう。
「アジェンナ人でもカサン帝国の軍隊に入る事は出来ます」
ヒサリはそう言った後ですぐに思った。この度カサン帝国軍の士官学校に入ったアジェンナ人は、北部のアジュ族でしかも身分の高い家の少年達だ。たとえメメが軍に入れたにしても、一兵卒としてこき使われるのがせいぜいだろう。ヒサリは自分の教え子に軍隊に入る事を勧める気は全く無かったが、まさか教え子の方からそんな欲求が出て来るとは……。
「それならメメにそう伝えます。でも私は、メメに軍隊に入ってほしくありません」
「それはどうして」
「メメに死んでほしくないから」
「それは私も同じです。でも、自らの危険を顧みず命がけで国を守ろうとするのは尊い事ですよ」
「でも、私達はなるべく長生きして母や父に教わった事を後から生まれてくる人達に伝えなきゃいけないんです。特にメメはきょうだいがみんな死んでメメしかそれが出来ないんです」
「それは確かにその通りです。でももし、あなたの大切な人を外からやって来た敵が傷付けたり殺そうとしたら、闘う事は大切でしょう」
「そんな人がいたら、私は大切な人を抱きしめて守ります。そうしたらみんな私のイボイボ病を恐れて近付けませんから」
「でもあなた以外の人にはそんな事は出来ないでしょ。それにあなたも将来の事を考えたら、そのイボをどうにかしないといけません。幸い今では良い薬も出来ているので、何とか手に入れられるよう当たってみましょう」
「私はイボイボを治したいとは思いません!」
そのまま少年はクルリと向きを変え、足を引きずりながら馬小屋の方に戻って行った。
(……まあ、一体あの子、どうしたのかしら……)
ヒサリはマルの様子がいつもと違うのに驚いた。マルはこれまでこんなに自分の考えを、特にヒサリと異なる考えをはっきり口にする事は無かった。ヒサリは部屋に戻った。再びアムトと顔を合わせると思うと気が重かった。部屋に入ると、アムトが寝台の上に腰かけて腕を組んでいた。ヒサリは黙ったまま床にござを敷き出した。
「ヒサリ、何をしてるんだ」
「寝床を作ってるの。今夜はどうせ泊まるんでしょ。私はここに寝る」
「バカな! 君が寝台に寝ろよ」
「高いか低いかの違いで、寝心地は大して変わり無いわよ」
二人押し問答した挙句、結局ヒサリが寝台で寝ることになった。しかし、明かりを消してもヒサリはしばらく寝付けず、パッチリ目を開けたまま闇を見詰めていた。そして先程アムトから言われた事を反芻していた。「結婚」という言葉を聞いた瞬間の興奮は既に冷めていた。今ではアムトよりもここの子ども達の事がよほど自分の心の大きな部分を占めている。それは紛れもない事実だった。かといってアムトが嫌いになったわけではない。それに自分も結婚を考えなければならない年齢だ。それでもヒサリの心と体はひんやりしていた。ただ頭の中だけが目まぐるしく回転していた。
「ヒサリ……」
不意に、アムトの声がした。
「急に結婚なんてこと言ってごめん」
「ううん。いいの」
ヒサリは少しの間口を閉じ、そして言った。
「結婚してもいいわ。いいえ、してもいい、なんて言い方してごめんなさい。結婚してもらえるなんて嬉しいわ。でも、今ここを去ることは出来ないの。何もかも半端に投げ出してしまうことになるから。だから待ってほしい。せめてあと、二年か三年」
その時、ヒサリの頭に浮かんでいたのはマルの事だった。この二年か三年の間に彼を高等学校に行かせるか、身に着けたカサン語を生かせる仕事に就く道筋を立ててやれないものか。ここの生活は辛い事もたくさんある。正直カサンに戻りたいと思う事も何度もある。もう何年も会っていない本国の士官学校に通っている弟や友達にも会いたい。しかしここの生徒達の何人かはとても優秀な事、そしてマルが順調に才能を伸ばして成長をしている事が何より自分にとって自信と誇りになっているのだ。
「それは分かってるよ」
その言葉を聞いたとたん、ヒサリは不意に、アムトに対し申し訳なく思った。さらにその後も、しばらく布団を引き被っていたが、様々な思いが渦巻き、一向に眠ることが出来なかった。「イボイボを治したいとは思いません!」そう言って去って行ったマルの後姿が瞼の裏に浮かんだまま消えなかった。
(どうしてあんな事を言ったのだろう? 物心ついた頃から持っているものは、あんな醜いイボさえ大切に思えるのかしら……)
考えても考えても答えは出ないまま、闇の重さをたたえた時間だけが過ぎてゆくのだった。
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