第119話 恋人アムトの訪れ 5

 ヒサリが部屋に戻ると、既にアムトは寝台に腰を下ろし、腕を組み、カタカタと小刻みに靴で床を鳴らしていた。

「よくここまでたどり着けたわね」

 言いつつヒサリは、本当は彼にここに来てほしくなかった、と思った。

「ビンキャットという男に案内されてここまで来たんだが、実に狡猾な嫌な男だね。こびへつらった薄気味悪い笑みを浮かべて、ちゃっかり金をねだってきやがる」

「貧しく虐げられた人間が、自然に身に着けた生きるための知恵よ」

「君がこんなひどい所で何年も教えているとは思わなかった。まさか壁も無い教室とはね」

「壁なんかあったら暑苦しくてやってられない」

「あんな子どもをよく教えられるな。見るだけでゾッとする」

「あの子は泥の中に埋まった宝石なの。あの子の心は光り輝いてる」

「フウーッ」

 アムトは溜息をついて、黙って数秒間ヒサリの方を見返した後、おもむろに口を開いた。

「君は随分しゃかりきに頑張ってるみたいだね。キイラにも言ってるんだろう? カサン精神がどうのこうのって。正直無駄だと思うよ。ここの人間は何百年も遅れてるんだ。カサン人と同じレベルを求めようなんて無茶だよ。キイラも最初は、ここの人間の意識を変えようと頑張ったみたいだけど、かえって恨まれるばかりだと分かったって。理想の押し付けは仇になるだけだ」

アムトは川向こうの学校で教えているシム・キイラの事を口にした。

「そんなことないわ! 私には、キイラが少しも努力しているように思えない!」

「ねえ……聞きたいんだけど、君はずっと、これからもここで教える気かい?」

「ええ、そうよ」

「国に帰る気は?」

「帰ってどうするのよ! 高等女学校出の学歴しか無いのよ! 大学を出ていなければ本国で教師は出来ないし。タイピストか商店の売り子でもしろと?」

「いや、だから……」

「私はね、今この仕事に、本当にやりがいを感じているの。実際に成果も出ているのよ! 本部に報告書と子供達の書いた作文を定期的に送っているんだけど、そのおかげで『妖人の子ども達への教育の意義』が認められて、アジェンナに今、いくつも妖人の子を教える学校が出来ているの。我ながらよくやってると思うわ」

「やれやれ……君の情熱には恐れ入ったよ」

「あなたに見てもらいたい物があるの。あの子の書いた作文。読めばきっと驚くわ」

 ヒサリはそう言って、マルがアロンガの町で目にした事や、汽車を見に行った時について書いた作文を取り出してアムトに渡した。アムトはそれを一瞥し、「仕方ない」という風に手に取った。

「これはお前の字じゃないか」

「あの子、字は下手だから書き直したの。でも文章はいくつかのミスを除けばほとんどあの子が書いたままよ」

 アムトは作文に目を通しながら言った。

「本当はお前が書いたんだろ?」

「残念ながら私にはこれは書けない。この子は天才よ。特別な子なの。私は、文章は書けるけれど、この子の持ってるような詩心は無い。この子の才能を守り育てる事、これが私の、ここでのもう一つの使命なの」

「ふーん。まあ、それなりに上手にまとめてはいるけど、俺には特別とも思えないな。まあ、せいぜいジン・セリの真似ってとこだな」

「アハハハハ! なんて事言うのよ!? これを書いた子はほんの十二歳なのよ。それなのにカサンを代表する一流の作家と比べるなんて!」

 笑い声を立てながら、ヒサリは思った。

(嫉妬だわ。アムトだって作家ですもの。これを書いた子がどれ程凄い才能を持っているか分からないはずがない。でも認めたくないのよ!)

 案の定、アムトは途中でそれを読むのをやめて忌々しげに脇に置いた。

「ところでヒサリ、俺の『マラータイの夜明け』は読んだかい?」

「ええ、読んだわ」

ヒサリはそれ以上何も言う事が無かった。マラータイはアジェンナ国北部の都市だ。金のためにピッポニア人と嫌々ながら交際していたアジェンナの貧しい娘が、カサン人の青年に出会い真の愛に目覚めるという話だ。陳腐としか言いようのない駄作だと思った。かつてのアムトの作品にあった社会に対するシニカルながらも鋭い視点は全く後退してしまった。それなのにこの作品は賞を得てベストセラーになり、映画化まで予定されているという。

「随分売れてるようじゃないの」

 ヒサリはようやくこれだけ言った。それ以上言葉が続かなかった。数秒間、何とも気まずい沈黙が流れた。

「いろいろな所からお誘いがあったでしょう。映画の主演女優とも会ったの?」

「まあね。雑誌の企画でアン・ウンスと対談したよ。小説の大ファンだって言ってくれた」

「アン・ウンス、いろんな映画で引っ張りだこね! でも彼女、典型的なカサン顔じゃない。顔を褐色に塗ってアジェンナの娘を演じるの? 悪趣味にも程がある!」

「俺がアン・ウンスと会った事を怒ってる?」

「まさか」

「ヒサリ、俺と一緒に国に戻らないか? 君がどうしても教師を続けたいなら、本国で教えられるよう大学に通う支援をしてもいい」

「そんな、駄目よ!」

「ヒサリ、結婚しよう!」

「…………」

 あまりに突然な出来事だった。ヒサリが言葉を出せないでいると、アムトはいきなり立ち上がり、近付くと、ヒサリの体にガバッと両腕を回した。

「ちょ、ちょっと待って!」

「いいや、待てない!」

 二人の体は絡み合ったままぐるっと一回転し、そのまま折り重なるように寝台に倒れた。

この時、ヒサリは自分の内に、忘れていた感情が蘇るのを感じた。目の前の子ども達やマルの才能に夢中になっている間に忘れてしまった感情。少女時代の、憧れの新進気鋭の作家トウ・アムトに自分が選ばれたという誇りとときめきを……。ヒサリは数十秒間、男に抱かれたまま、かつての自分を思い返していた

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