第115話 アディの恋 7
アディは、教室の中で俯いたまま、石になったような気分だった。オモ先生に当てられ、仕方なく顔を上げた。
「そんな風に下を向いていてはいけません。あなたもカサン帝国の一員です。いつも胸を張っていなければいけません」
アディはゆっくりと顔を上げた。つらくてたまらない時にまで顔を上げていろだって!? そんなの無茶だ! トンニは、オモ先生はいろいろ役に立つ事を教えてくれると言う。だったら役に立つ事だけを教えてくれたらいいのに! カサン帝国の臣民になってカサン語を勉強すればハーラが助かるっていうのか? トンニが言っていた。おら達がカサン人の真似をすれば生活が良くなって、この世からいろいろな病気が無くなると。でもそんな事言ったって、ハーラには間に合わないんだ! それに、そういうまわりくどい事はたいがいいかさまだ。なんでみんな分かんないんだ……! しかしアディは胸の中の思いを押し込めたまま、ただ頭を上げた。こんな時、ナティならすぐに口ごたえしていることだろう。しかしアディには、決してそんなはしたない真似は出来なかった。
授業が終わると、耳元で
「アディ、アディ!」
と囁く声が聞こえた。ああ、マルだな、と思った。しかしこの時アディには「あっちに行ってくれ」とは言えなかった。代わりに顔を上げて、彼に言った。
「一緒にハーラの家に来てくれる? 一人じゃ不安なんだ」
二人はほとんど口をきかないまま、重い足を運んでいた。前回は、アディは足を引きずりながらゆっくり歩くマルを度々振り返らなくてはならなかった。けれども今は、アディの気持ちの速度はマルの歩みに会っていた。ゆっくりと歩いている間も、ずっと心臓が半分体からずり落ちているようだった。
ぴったりと横について歩くマルが、不意に歌い出した。それは以前マルがハーラの前で歌ったような歌ではなく、全然関係ない滑稽な歌だった。
「ホカホカと 糞の妖怪恋をした 恋の相手は土の精 二人は抱き合い愛し合い 産まれてきたよ ピンピンと 緑の稲の子ども達」
「どうしてそんな歌うたうんだい?」
「だ、だって、おらだって恐いんだ。ハーラがどうなったかって思うと。それにね、スヴァリが歌ってるから、それに合わせておらも歌ってるんだ」
アディは、マルが一緒じゃなかったら怖くてとてもハーラの家にたどりつけないだろう、と思った。恐くて逃げてしまいたい気持ちでいっぱいだった。アディはずっと自分の足を見詰めながら歩いた。そして、一度自分の前髪を流れ落ちる汗を拭おうとかき上げたその時だった。視線の先に、ハーラの家の窓が見えた。そこには少女の姿があった。
「ハーラ!」
アディの口から、翼を付けた声が勝手に飛び出していた。しかしその後、アディは数秒間、口がきけないでいた。やがて何者かに手繰り寄せられるかのようにフラフラと窓辺に寄った。ハーラは顔色も良くなり、すっかり元気になったようだった。アディはその場に立ったままハーラと見詰め合っていた。
やがて、家の中で母親がハーラを呼ぶ声がした。ハーラはクルリと向きを変え、部屋の奥へと消えて行った。アディはそのまま走ってハーラの家の床下に飛び込んだ。そして床を見上げ、しばらくの間首が痛くなる程そうしていた。やがてマルもやって来た。
「ハーラは元気になったんだね!」
アディはマルの顔を見返した。イボだらけの顔の奥にある目が笑っているように見えた。普段は近くに寄るのも嫌なマルの体にアディは思わず抱きついていた。そしてそのままの格好でピョンピョン飛び回り、笑った。
やがて、二人はピタリと動くのをやめた。床の上からこんな声が聞こえてきた。二人はその瞬間、口を閉じて、その声に耳を傾けていた。
「ハーラには同じ年ごろの話し相手が必要よ。あの子を部屋に入れてあげてもいいんじゃないかしら」
「バカな! 汲取り人の子じゃないか! 妖人だぞ!」
「でもあの子はこの辺の子よりずっと真面目で良い子みたいですよ」
「そうはいっても、それだけはダメだ!」
アディは
「さあ、行こう」
と言ってマルの肩を叩いた。そして自分達の住んでいる方に向かって歩き始めた。やがてマルが歌い出した。
「ああ奥様 お気持ちだけをこに胸に しまって持って帰ります 卑しい妖人この私 耳を澄ませて聞くでしょう ハーラの足音笑い声 光の雨の優しさが 私の体に降るでしょう」
アディは、自分の思いがそのままマルの歌声となって耳に聞こえてきたので驚いた。そして思った。ああ、やはりマルの口に言葉を入れる女神様がいるんだろう。いや、もしかしたら魔女かもしれない。でもどっちだっていいんだ。たとえ魔女でも、きっととても優しい顔をした魔女に違いないんだから
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