第113話 アディの恋 6

 教室に突っ伏したアディの耳に、

「ねえ、ねえ」 

 というマルの声が響いた。アディは「あっちへ行ってくれ」というように首を振った。母さんに言われて仕方なく学校に来ているけれど、とてもこんな所に座っている気持ちにはなれなかった。今にも、ハーラの命が飛び散ってしまうかもしれないのに! 

カサン語の授業が終わり、休憩時間になった時、アディはついにオモ先生に申し出た。

「今日はどうしても気分が良くないんです。どうか早退させてください」

「分かりました。気をつけて帰りなさい」

 オモ先生は言った。昼過ぎには母さんがここに先生のための食事の準備や掃除をするために来る。その時に母さんは自分が勝手に帰ってしまったことを知ることになる。そうしたら母さんにひどく怒られるだろう。けれどもこのまま座っていたら、体から魂が転がり落ちてしまいそうなのだ。

「大丈夫? 一緒に家まで行くよ」

 そう声をかけてきたテルミの気遣いまでがうっとうしい。アディは黙ったまま首を振って立ち上がり、そのまま教室の外に向かって進んだ。

その時だった。突然、誰かにシャツの端をグイと掴まれた。アディが驚いて振り返ると、そこには机についたまま静な目で自分を見上げているトンニの姿があった。

「ちょっと、一緒にいいかい」

 アディはトンニに引っ張られるように教室の外に出た。

(トンニが一体、何だろう?)

 アディはトンニと二人きりで話をしたことがなかった。皆と一緒にいる時も、トンニは口数が少なく、大人びていて、いつでもトンニの周りだけ少し温度が低いような気がするのだ。

「ラドゥからいろいろ話を聞いてる。君が好きなお嬢さんの家の糞を見させてもらった」

 アディは目を見張った。

「どうして!?」

「俺は最近、糞にとりつく妖怪を見るのが好きなんだよ。色々なことが分かるから」

「…………」

アディは驚きの余りトンニの顔を見返した。彼らは妖獣を解体したり皮を剥いでなめす一家の生まれだ。汲み取りの仕事をしてない彼が、わざわざ好んで糞を見るなんて信じられない事だ。

トンニは薄い唇の端を軽く持ち上げて言った。

「僕ははっきり言って、君よりも糞の妖怪については詳しいと思うよ。お嬢さんはこのまま放っておくと、もうじき死ぬ。悪い妖怪が体の中に入ってしまったから。祈祷師や医者が何をやっても無駄だ」

 アディは黙ったままじっとトンニを見返していた。自分にわざわざこんな事を言いに来るのは、彼に何か妙案があるからではないか。

するとトンニは、腰に付けた袋の中から、何か、葉っぱに包んだ物を取り出した。

「……これ、いろんな妖獣の肝から取ったものを砕いて捏ねて作ったんだ。俺が作った。これまでいろんな動物に試してみた。体に入り込んだ悪い妖怪を殺すことが出来るんだ。僕はずっと、これを人間で試したいと思ってた」

「試すだって!? これをハーラに試せって言うの!?」

「そう。もし君が嫌だって言うんなら無理強いはしない。でも言っといてあげる。もし何もしなかったらお嬢さんは死ぬよ。間違いなく」

 アディはトンニから渡された物を手に乗せたまま、何も言えないままアディの顔を見詰め返した。

「これにものすごい力があることを知った人は、大金を出してでも欲しいと言ってくるよ。でも僕は君にただでこれをやる。君は仲間だから。使うか使わないかは君が決めたらいい」

 トンニはアディの肩をポンと一つ叩いて、そのまま帰りの道をサッサと歩いて行った。

 アディはしばらくその場に立ち尽くしていた。しかし、トンニの背中が見えなくなるやいなや走り出した。今トンニから受け取った物を胸の前で両手に握り締めたまま、学校のある丘を下り、ぬかるみだらけの道をずんずん進んだ。足が止まらなくなってしまったかのようだった。

その間、アディの頭の中に何の考えも無かった。ただ先へ、先へ、先へという思いだけが彼をを動かしていた。橋を渡り、その先の石畳の道をずんずん進んだ。途中農夫が自分の方に向かってやって来るのに気が付いて道の脇によけ、そこに生えている木の下でようやく初めて立ち止まった。そして、手にずっと握り締めたままの葉っぱの包みを広げた。黒い、親指大の丸薬がそこに包まれていた。アディはしばらくの間、それをじっと見詰めていた。

一体、どんな妖獣の肝がそこに入っているんだろうか? トンニの親が最近すごくたくさん学校に寄付しているらしいけれども、この丸薬を売ってお金を稼いでいるんだろうか? トンニはこの薬を「人間に試してみたい」などと言ってアディを不安にさせたが、この薬は実際、邪悪な妖怪を退治する凄い力を持っているんじゃないか。アディは丸薬の神秘的な深い黒色を見詰めながら思った。アディは丸薬を少しばかり齧ってみた。齧ったかけらはドロリと喉を下ってゆく。体に悪いものではない、と感じた。農夫が去ると、アディは再び石畳の道を走り出した。


 息せき切ってたどり着いたハーラの家の前でまで来て、アディは立ち竦んだ。汚らわしい妖人の自分が、立派な人の家の階段を上り、扉を叩くなど考えられない事なのだ。物を投げ付けられるかもしれない。もう二度とここに来るなと言い渡されるかもしれない。しかしそのような予想も、ハーラが永遠にこの世から消えて無くなるかもしれないという恐怖に比べたら取るに足らない物だった。

扉が開かれる間、アディはじっと下を向いていた。扉を開けたのはこの店の召使であることが、見上げずとも分かった。その足が、半歩後ろに下がった。もし顔を上げたら、「妖人の子が! ずうずうしい!」という非難がましい目とぶつかるだろう。アディは下を向いたまま、扉が閉じられる前に、早口で言った。

「奥様に話があるんです! どうか奥様と話をさせて下さい!」

「…………」

 召使は何も言わなかった。

「お願いします! お嬢さんの事で、どうしても伝えたい事があるんです!」

 召使は静かに部屋の奥に消えた。アディがその場にじっと立ったまま耳をすませていると、部屋の奥から

「ああ、ああ……」

 という呻き声が聞こえてくるようだった。アディはすぐにでも部屋の奥のハーラの元に走り込みたい気分だった。やがて、奥様が姿を現した。「あっちへ行きなさい」と言われるよりも先に、アディは自分の声の震えを抑えつけるように言った。

「珍しい妖獣の肝で薬を作ってる友達がいるんです。とても高く売れる薬らしいんです。どうかハーラさんに……」

 しかしアディは、自分の手の内にある物を直接奥様に手渡す事は出来なかった。そのまま跪いて葉っぱに包んだ丸薬を床に置き、立ち上がってクルリと向きを変え、一気に階段を下りた。しかし階段の一番下まで降り切った時、アディは振り返り、彫像のように立ち尽くしている奥様の方を見上げて言った。

「妖獣の薬など穢らわしいと思われるでしょうが、薬はじきに体から外に出ます! これでハーラさんが穢れる事はありません! もし、ハーラさんがこれを飲んで死ぬような事があれば、私は……私は、川に身を投げて死にます!」



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