第105話 小さな怪物 8

 橋にたどり着くと、再びランは振り返り、

「早くしろ!」

と地団駄を踏んだ。

この時マルは、ちっとも女の子らしくないと思っていたナティが普段どれ程優しく、足の悪い自分を気遣ってくれているかということを思った。川向うへ行くのはいつだって恐い。でも今ではもっと恐ろしいランという女の子がいる。もうどうにでもなれという気分だった。

 橋を渡り切り、しばらく行くと前方から一人の農夫が馬に荷台を引かせてやって来るのが見えた。ランはいきなりトットットッと農夫の傍まで走って行くと、彼に向かって尊大な口調で

「あたしをこの荷台に乗せてアロンガまで連れてって。金ならやる」

 と言った。農夫は突然の出来事に驚いたのか、

「ひいっ」

と言って荷台に背中からへばりついた。ランはカサン語に「金」だの「早く」だアマン語を混ぜてわめくように言うのだが、さっぱり通じていないらしく、相手は

「あ……あ……」

 とうめくばかりだった。ランは苛立ち、荷台を車輪をガンガン蹴りながら怒鳴った。

「ぐずぐずするな! あたしはカサン人なの! あたしを怒らせる気!?」

 農夫はようやく理解したようで、

「は……はい」

と答えた。

「あの子も一緒だよ!」

ランはそう言ってマルを指差した。マルはそれを見て震え上がった。穢れた妖人で忌々しい病気を持つ自分は、人の体はもちろん人の持ち物も決して触れちゃいけないのだ。荷台に乗るだなんて! 出来っこない! マルがいよいよ後ずさりし始めた時、農夫がひょいとマルの方に顔を向けた。とたんにものすごい形相でマルを睨みつけ、腕を振り回した。

「冗談じゃねえ! あんなガキに触られたらこの荷台が腐っちまう! あっちへ行け!」

「うるさーい!」

 ランが叫ぶと、馬が興奮して激しく首を上下させた。

「あたしを誰だと思ってんの! カサン人よ! カサン人はお前たちの主人なんだよ! カサン人は偉いんだ! 言う事聞け!」

 ランはそう言って荷台を再びガンと蹴飛ばした。農夫はもはや一言も発する事が出来なかった。

「さあ来な!」

 ランはいきなりマルの腕をつかみ、荷台のそばまで連れて行った。その瞬間、農夫は

「うわあああっ」

 と声を上げたが、次に出た言葉は先程まで高圧的な調子とはまるで異なっていた。

「た、た、頼む! どうかこれに触らないでくれ! お前に触られたら村じゅうの噂になる! そしたらこの荷台はもう使えねえ! 荷台が使えなきゃわしら一家はのたれ死にだ!」

 マルは、農夫の言葉を聞きながらだんだん、

(どうしてこの人はこんなバカな事を言うんだろう)

という思いが込み上げてきた。おらが触って物が腐るんなら、おらが歩いたこの道だって腐ってしまうはずじゃないか……。

ランは懐中から袋を取り出し、中から金色に輝く硬貨を取り出した。

「これ、欲しい?」

 農夫はいきなり目を大きく見開き、

「あ……あ……」

 と呻いた。マルは硬貨という物を見たことはあったけれども、その輝きは今まで見たものとはまるで異なっていた。

「さあ、どうする? あたしとこの子をアロンガまで連れて行けばこれをやる」

 ランは農夫の目の前で、硬貨を乗せた手をゆっくり揺らした。マルはそれを見て思わず目を伏せた。どういうわけか、それがひどく残酷な行為のように思えた。マルはそっと農夫に向かって言った。

「ねえ、もしおらがあの荷台のムシロの下に隠れて、人に見られないようにしたらいい?」

 農夫は何も答えなかった。ただその目には諦めが浮かんでいた。

「さ、乗んな」

 ランがマルの尻を蹴飛ばした。マルは思い切って荷台によじ登り、素早くムシロの下に身を隠した。直後、ランが乗り込んで来た。ランの体は小さいのに、その際ひどくガタガタ荷台が揺れた。荷台はやがて道を進み始めた。マルはムシロの下にじっとしながら、今頃ヒサリ先生はあの手紙に気付いただろうか、どんなに腹を立てているだろう、と思った。しばらくするとランがマルの隠れているムシロをガバッとめくって言った。

「クソ暑いったらありゃしない! なんであんただけがこの下で涼んでるんだよ! このムシロよこせ!」

「そんなわけにいかないよ! おらはこの下に隠れてなきゃいけないんだから!」

 マルはランがムシロをぐいぐい引っ張るので慌ててムシロを握り締めた。やがてランが諦めたように手を緩めたのでマルも安心して手を離した。すると再びずるずるとムシロが引きずり取られてしまうので、マルはアロンガに着くまで必死でムシロを握っていなくてはならなかった。

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