第104話 小さな怪物 7

 マルは翌朝、いつもよりずっと早く目覚めた。そして昨日のことを思い出しながら、体がジットリと熱くなってゆくのを感じた。

昨日出会ったあの女の子にはびっくりした! あんな獣みたいな声を出す子なんて初めて見た。あの子がヒサリ先生の妹だなんて信じられない……。

だけど、それから後の時間は夢のようだった。まるで自分の歌声が、ヒサリ先生のオルガンを弾く指から流れる音色に乗って空に飛んで行くみたいだった。それは遥か遠いカサンの国にまで飛んでいく。そして壁の厚い、暖炉の灯ったカサンの家にたどり着く。ガラスのはまった窓にはしきりに雪が打ち付けている……。

昨日ヒサリ先生に教わった歌は完全に覚えてしまった。歌は二番までだったけれども、マルの頭には自然に三番、四番が浮かんだ。マルの目の前に、カサンの壁の厚いレンガの家の中で机に突っ伏して眠っているあの人の姿が見えた。マルは後ろからそうっと近付き、イボだらけの自分の手で集められるだけ集めてきた雪をあの人のうなじに落とす。あの人が驚いて目を覚まし、サッと振り返る……。やがて、マルの口から歌が自然と流れ出た。

「あなたはぱっと目を開く あなたの瞳におらがいる あなたの瞳の森の奥 歌っているのは孤独なヤモリ……」

マルの歌声に合わせるように、あの人の馬は穏やかな鼻息を鳴らしていた。

 マルはやがて立ち上がり、扉を開けて小屋の外に出た。そして優しい朝の涼しさの中に、しっとりと体を浸していた。周りには濃い霧が立ち込めていた。マルは、それがまるで雪であるかのような空想に浸りつつ、ゆっくると教室に向かって足を進めた。教室の中に入ると、昨日ヒサリ先生が弾いてくれたオルガンにそっと体を寄せた。ひんやりとした木材の感触は心地良く、ヒサリ先生に触れたらこんなだろうなと思った。マルはぴったりとオルガンに体を付けたまま、「窓辺の雪」の歌を一番からゆっくりと歌い出した。一番、二番、そして自分がヒサリ先生を思いながら作った三番、四番……。マルが目を閉じると、瞼の裏には雪に覆われたカサンの街を背景にしたヒサリ先生の姿様がありありと浮かんだ。

 その時だった。マルは突然、背後からものすごい衝撃を受けて床にバッタリ倒れた。変な妖怪に襲われたのか! マルの体は恐怖で固まった。やがて、マルの耳にはこんな声が鋭く刺さった。

「バカ! 汚い土人!」

 それは妖怪などではなく、明らかに人間の声だ。マルはそろそろと首を動かして振り返った。そこに仁王立ちになっているのは昨日のあの女の子だった。人間の子なのにその真っ赤な唇は吸血女のように毒々しかった。切れ長の目の形はヒサリ先生によく似ている。しかしヒサリ先生の目は美しいのに対し、この子の目は意地悪そう!

「あんた! そこで何してたのよ!」

 女の子が言った。

「歌ってた」

 マルはどうにか答えた。

「なんで土人のくせにカサン語の歌なんか歌うのよ! 生意気ね!」

「オモ先生が教えてくれたから」

 マルが言い終わるのも待たずに、女の子は

「うるさい~!」

 と癇癪を起した。かと思うといきなりジロジロマルの顔を見詰めた挙句、こう言った。

「あんた、本当に土人の子? 汚いイボイボのせいで、あんたの肌の色が本当に土人色かどうか分かんない。証拠に、何か土人語喋ってみろ」

「土人語ってアマン語のこと?」

 マルはそう言ってから少し考えた後、アマン語でこう言った。

「君は本当に意地悪で恐い子だね。まるで悪い妖怪みたい。どうしてそんなにおらに意地悪するの?」

 そのとたん、女の子の靴がどすんとマルの腹に撃ち込まれた。

「アウッ!」

「訳の分かんない言葉喋って! あんた、生意気なのよ!」

 マルはヒリヒリする腹を抑えながら思った。カサン語で話してもアマン語で話しても怒られるなんて無茶苦茶だ……! 訳が分からない。ヒサリ先生早く来て! この子を何とかしてよ……。しばらくうめき声を上げていたマルが再び女の子の方を見ると、相手は切れ長の目をキュッと糸のように細めて言った。

「あたしの名前はランって言うの。でも呼び捨てにしたら許さない。あたしを呼ぶ時は『ラン様』って言いなさい」

「はい……ラン様」

「あたしね、あんたが今考えてる事、みんなお見通しなのよ」

「……え……」

「あんた、あたしの姉ちゃんに悪いこと考えてるでしょ」

「悪い事なんてなんにも……」

 しかしマルは自分の心が見通されたような気がしてギョッとした。

「あんた、その汚い体で姉ちゃんに抱きついて病気をうつそうと思ってんでしょ」

 マルは声も出せず、微かに首を振るのがやっとだった。

「姉ちゃんにあんたの悪だくみをばらしてやる!」

「お、お願い! そんな事しないで!」

「あんた、なんか忘れてる事ある!」

「ラン様! そんな事言わないで!」

「分かった。言わないでおいてやる。その代りこれからずーっとあたしの言うことを聞くこと。いい、これからあたしてついて一緒にアロンガまで来な」

「ええ! アロンガまで!? でもおら、そんなに遠くまで歩けないよ……」

「いいの! ついて来るの!」

「…………」

 マルはそのままついて行くより他無かった。そうしなければヒサリ先生に告げ口されてしまう。オルガンに体を寄せてうっとりしているところをランに見られてしまったのが運の尽きだ。

「あたしに近付き過ぎてもダメだし離れ過ぎてもダメ。分かった!?」

「はい……」

 マルは身にまとったボロの下に持っていたノートに、ランに分からないように素早く「これからアロンガに行ってきます。なるべく早く戻ります」と書き付け、ちぎってヒサリ先生の使う机の上に放り投げた。マルはランについて必死に足を進めた。先へ先へと行くランは、たびたび振り返り、

「何のろのろしてるんの! 早く来な!」

 と言って道端に落ちている木の枝を拾って投げつけるのだった。マルはくるりと向きを変えて逃げ帰るわけにもいかなかった。この恐ろしい女の子はたちまちマルに追いつき、さんざん蹴りつけるだろうから。


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