第97話 名前を授ける 8
「ナティ! ナティ!」
涼しい風のような声がナティに耳に流れ込んで来た。マルの声だ! ナティの目に涙が溢れた。涙の滲んだ目に映ったマルは醜いイボだらけに覆われているにもかかわらず、とても愛おしく見えた。
「プシーに赤ちゃんが生まれたんでしょ? テルミから聞いたよ。もう見てきたの?」
「ああ」
「おらも見に行きたいなあ。でもあの家に行くの、気が進まないよ。パンジャがいるから……」
人の悪口などめったに言わないマルも、さすがにパンジャについては腹に据えかねているらしい。マルはその時ふと、ナティの様子がいつもと違うことに気付いたようだった。
「どうかした? 赤ちゃんに何かあったの?」
「別に。ピンピンしてるよ」
「良かった」
「見たって別に面白くも何ともねえ。ギャアギャアうるせえだけで猿と変わんねえ」
ナティとマルは並んで歩き出した。
「カサンの魔女の馬小屋に戻るんじゃねえのかよ」
「ううん。今夜は川べりで過ごそうかなって思って。きっと今日は月がきれいだから」
マルはランプを手にしている。
(マルの奴、月を見ながらシャールーンに手紙でも書くつもりかな)
ナティは思った。
「お前、随分シャールーンに手紙送ってるみたいだな。でも、シャールーンは別にお前の事なんか好きじゃねえってよ。ただ手紙に書いてある詩が好きなんだってさ」
ナティはこの瞬間、自分がひどく意地悪な事を言ってしまったと後悔した。マルの表情はイボで分からなかったが、きっと悲しそうな顔をしたと思った。しかし、マルの口から出たのは思いがけない言葉だった。
「おらの詩が気に入ってくれたんなら嬉しいよ。おらのことを好きになってくれなくても。だっておらイボだらけだし」
「そういう問題じゃないだろ! お前はこんなに一生懸命手紙書いてんのに!」
「でも詩はおらの心だから、それを気に入ってくれたんならそれでいい」
「そうか……」
ナティはふうっと息を吐いた。なんてお人好しなんだ、マルは! 人になにかあげるばかり。見返りなんてちっとも考えちゃいねえんだから……!
「ところで俺には詩なんて書いてくれたことねえよな」
ナティは冗談めかして言ったつもりだった。しかしマルは真剣な様子で返した。
「ナティは普通の女の子と違うから、詩をもらったって嬉しくないんじゃないかと思って」
ナティはハッとしてマルの方を見た。マルは
「あっ!」
と言って慌てて口に両手を当てた。
「なんで? いつから知ってた?」
「母ちゃんが教えてくれた」
「それじゃ……それじゃずーっと前ってことじゃないか!」
そういえばマルの母ちゃんは目が見えないのに何でも分かる不思議な人だった。マルが知っていてもちっとも不思議じゃない。なあんだ、と思った。こんなに長い事隠そうとしてただなんて! でも言うのが恥ずかしかったのだ。しかしナティは、自分が女の子だということをパンジャよりもずっと先にマルが知っていたことが嬉しかった。
「人に言うなよ、絶対」
「言わないよ、言わない、絶対」
「俺、嫌なんだ。大きくなって姉ちゃんみたいに嫁に行くのが」
「分かるよ。だって窮屈そうだもんね」
マルは少しの間黙っていた後に言った。
「おら、きっとナティの詩を書くからね」
「よせよ! どうせけんかばっかりしてるとか口が悪いとかろくでもねえこと書くんだろ?」
「フフフフフ……」
「図星なんだな! チクショウ! まあしょうがねえや。俺を笑いものにする詩が出来たらその辺のガキにでも聞かせて面白がらせてやればいいさ」
そう言い、ナティはさっさとマルの先に立って歩き出した。ナティの心を覆っていた雲がいつの間にか消えていた。ナティの心はいつのまにか澄んだ夕焼けの空のように晴れ渡っていた。
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