第96話 名前を授ける 7
ナティはせっせと足を動かして丘を下っていた。
テルミからたった今、プシー姉ちゃんが子どもを産んだって話を聞いたところだった。姉ちゃんの嫁ぎ先のアッサナック家に行くのは気が重かった。家の様子は立派だけども、何とも居心地が悪い。それにあの家の末っ子のパンジャがいろいろうるさく話しかけてくるのも嫌だった。けれども姉ちゃんが初めて子どもを産んだんだ。行ってやらなきゃ! おかげでマルに「カサンの名前なんか使うな」っていう話が出来なかった。本当はマルと一緒に来たかったけど、とても誘えなかった。パンジャがまたマルに石を投げつけるかもしれないからだ。
アッサナック家に着くと、姉ちゃんのいるであろう場所の見当を付けて
「姉ちゃん!」
と叫んでみた。しかし物音一つ聞こえない。ナティはフーッと溜息をついた。昔、父ちゃんや兄ちゃん達と一緒に川向うの地主の家に妖怪退治に行ったことがある。あれに比べたらずっと小さいが、きれいに削られた木の板を組み合わせた気取った家だ。赤ん坊はテルミとテルミの母ちゃんが取り上げたから姉ちゃんは安心だったろう。けれども金持ちになればなるほど、体にジャラジャラ飾りを付けたり髪を変な形に結ったり窮屈な生活をしなきゃなんないのだ。ナティがもう一度、
「姉ちゃーん!」
と呼んだが返事が無い。ナティは正面に回って何度も扉を叩き、
「姉ちゃんに会いに来た! 開けろ~!」
と叫んだ。随分長いこと待たされた挙句、ようやく一人の女が出て来た。十五、六歳の使用人の女だ。相手はまるで汚いものを見るかのようにナティをジロジロ見たかと思うと顎をしゃくって中に入るように促した。家の中は敷物だの家具だのが以前よりも増えていたが、ナティにはただのがらくたにしか見えなかった。
(こんなものあったってしょうがねえ。ハンモックさえあれば十分じゃねえか!)
ナティはそう思いつつ、使用人の女について進んだ。プシー姉ちゃんは寝台の上に腰かけていたが、ナティを見るとサッと唇に指を当てた。
「そんな風に足音を立てないで! この子が目覚めちゃうじゃない!」
ナティはプシー姉ちゃんの腕に抱かれた赤い生き物を覗き込んだ。
「男の子だって? 姉ちゃんの旦那より姉ちゃんに似てほしいよな! 旦那に似たら豚を後ろから見たみてえなすげえブ男になるだろうからさ!」
「そんな事言うもんじゃないわ。それにあんたすごい泥だらけよ。この辺りの物、汚さないでね。怒られるから」
ナティはこの時、使用人の女がじっと自分達の方を見ているのに気が付いた。
(チクショウ! 見張ってやがるな)
ナティはすっかり気分がくさくさしてきた。
「どうせ俺がいても邪魔みてえだな。そんなら帰るよ」
「あら、待って!」
プシー姉さんはそう言うと、寝台の下から革袋を取り出した。
「これを父さんに。本当はあげたくないんだけど。どうせお酒と賭け事に使っちゃうんでしょ」
「まあそうだけどさ」
ナティは革袋を受け取りながら言った。
「それにしてもなんで靴屋ってのはそんなに儲かるんだ?」
「それはカサンの兵隊さんが私達の靴を買って下さるからよ。ところであんた今、カサン人の先生からカサン語を教わってるんでしょ」
「まあな」
「すごくいい事よ! それなのにあんたときたら、先生に刃向かってばかりだというじゃないの」
(テルミの奴! 余計な事言いやがったな!)
ナティは歯ぎしりした。
「カサン人の先生ってのがさ、魔女みてえな女なんだよ。そんでいつでもしかめ面してて、どうも虫が好かねえんだ」
「そんな事言うもんじゃないわ。カサン人は頭が良くて器用で立派な人達よ。それに私達が作った靴を汚らわしいなんて言わず、喜んで履いて下さる」
「それは川向うの連中よりカサン人の方がちょこっと物事を知ってるってだけのことさ。いちいちありがたがる事でもねえ!」
この時、プシー姉ちゃんの腕に抱かれた赤ん坊がぐずぐずとむずかったかと思うと、いきなりギャオギャオと泣き出した。
「ほらっ、あんたが大声を出すから!」
ナティは首を竦めた。
「分かったよ! そんなに俺が邪魔ならもう帰る!」
ナティがすっかり嫌気が差し、帰ろうとしてクルッと向きを変えたその時だった。部屋を仕切るために掛けられた簾を上げて自分達をじっと見詰めている少年に気が付いた。それはパンジャだった。ナティはその姿を目にするやいなや、どういうわけかゾッとした。ナティはパンジャを睨みつけ、簾を払ってその横を通り抜けると、大股で入口まで行き、高床式の家の階段を一気に駆け下りた。
「おい、ナティ!」
ナティをこの瞬間、心臓がぐいっと掴まれたような気がした。パンジャに「ナティ」と馴れ馴れしく呼ばれるのはこれが初めてだった。しかもその声音は妙に柔らかく、何か嫌な事を言われる前触れのような気がしてとっさに身構えた。
「プシーに聞いたんだけど……お前、女なんだってな?」
ナティはハッとして振り向いた。いつも尊大なパンジャの妙におどおどした言い方が、余計にナティの胸の内を燃え上がらせた。
「……何が言いたいんだ?」
ナティに睨みつけられたパンジャはそわそわと首をひねった。
「そんな事人に言うな! 絶対言うな! もし言ったら殺してやる!」
「わ、分かったよ……」
パンジャは横を向いて呟くように言った。
ナティはそれからしばらくの間、怒りに足を震わせながらずんずん足を進めた。やがて涙が込み上げてきた。ナティは頭を振り、足元の泥を蹴り上げた。
(チクショウ! チクショウ! チクショウ! 姉ちゃんはなんでパンジャになんかにばらすんだ! もう姉ちゃんに会いに行ってやるもんか! 寂しけりゃてめえの腹から出たガキに慰めてもらえ!)
後から後から沸き出る怒りと太陽の熱とでそのまま体がグラグラ沸騰しそうだった。
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