第95話 名前を授ける 6

「あーあ、つまんねえの!」

ナティは教室の床にごろっと寝そべった。昨晩からなんだかむしょうにマルと話がしたくて、授業が始まる前にたっぷり話がしたくて早々とここまで来たのだ。そして馬小屋の扉を叩いたのだが返事がなかった。壁の隙間から覗いてみると、藁の中でマルの体がゆっくり上下しているのが見えた。扉を蹴って起こそうとしたが、思いとどまった。ナティは教室の床にねそべったまま、天井を見上げながら一人ぶつぶつ呟いていた。

「あーあ! マル、お前はどう思うのさ! みんなヘラヘラ笑ってカサンの名前なんかもらいやがって! あんなものもらって何が嬉しいんだ!? そりゃあ確かにおら達妖人にはひでえ名前がついてる。でもそれは、人の魂を喰らう妖怪から狙われないよう、わざとそういう名前をつけてんじゃねえか! カサンの名前をこれから名乗る奴らはこれから先どんな災いが降りかかるかわかんねえぞ」

 ナティはマルに「カサンの名前なんか使うな!」と言ってやるつもりだった。その他にもマルにはいろいろと言いたい事があった。ナティはこれまで自分に、マルのカサン語の勉強の邪魔をしないよう言い聞かせてきた。マルがこれから生きていくためには、カサン語を覚え、カサン語で物語が出来るようにならなければならないのは分かっていた。分かっているけれども……。ナティは時々、恐ろしくなるのだ。マルの魂が何か真っ白な、巨大なものに吸い取られてしまいそうで……。ナティは教室の床に寝そべったまま何度も馬小屋の方を見たが、一向に扉が開く気配は無かった。

「ええい! コンチクショウ!」

 ナティがついに起き上がり、再び馬小屋に向かって駆け出したその時だった。背後に物音を聞き、ハッとして振り返った。シャールーンが、教室の中にたった一人でいるのが見えた。いつも彼女と一緒に来るうるさいチビのミヌーがいない。ナティは不思議に思うと同時に、シャールーンが一人で何をしてるんだろうと思って息を潜めて見詰めていた。シャールーンは、自分の机の天板と脚の間に挟んであった紙を引っ張り出した。ナティはハッとした。

(あれはマルが書いたんじゃないか……!)

 ナティはマルがシャールーンのことを好きなのは知っていた。可哀想なマル! シャールーンがイボイボの醜いマルのことを好きになるはずがないのに! 人の噂をよく知っているニジャイの話によれば、シャールーンはもともと士族の生まれだったけれども、奴隷の身分に落とされたらしい。シャールーンの両親は王様の跡継ぎをめぐる争いに関わったんだ。一番目の后と二番目の后の王子の間に跡継ぎ争いが怒って二番目の后と子が勝ったんだけど、一番目の后と王子に味方した家臣はみんな殺され、家族は奴隷に落とされたって話だ。おっかねえ話だ! しょせんシャールーンは自分達とは全然違う世界に生きてるんだ。マルとシャールーンが仲良くなれるはずがない……。ナティはそう思いつつ、シャールーンの様子をじっと見詰めていた。

(マルが一生懸命書いた手紙を破り捨てるようなことしたら許さねえからな!)

 シャールーンは、手紙に視線を落としたままじっと読み耽っている。しばらくしてその顔には、今まで見たことのない微笑みが浮かぶのが分かった。ナティは息を詰めてその様子を見詰めていた。そのうちにいてもたってもいられなくなり、飛び出した。シャールーンはビクッと体を震わせ、サッとナティの方を見た。

「それ、何だよ! 見せろよ!」

 シャールーンはためらうことなく、いともあっさりと手紙をナティに差し出した。ナティは一瞬虚を突かれた。そこには明らかにマルの字で、アマン語の詩が書かれていたが、それはなんだか変わった詩だった。シャールーンのことを美しいと書いているのいるのだけれど、彼女が薪を割るとか見世物小屋の妖怪達に餌をやるたくましい腕が素敵だ、なんて事まで書いてある。それは確かに本当の事だけれども、こんな詩を女の子がもらって嬉しいんだろうか、と思った。

「へ~、何だか変な手紙だな」

 ナティが言うと、シャールーンは草を編んで作った袋の中から、折りたたんだ布を大切そうに取り出し、机の上で開いた。その中にはマルがシャールーンに書いたらしい手紙がたくさん入っていた。マルときたら! いつの間にこんなにたくさん手紙書いたんだ!

「おいおい、お前がこのままマルに手紙もらい続けたら、マルは勘違いしてお前のこと好きになっちまうかもしれないぜ! そんなの困るだろっ!?」

 シャールーンは首を傾け、少し笑っているみたいだった。

「まさか……」

 ナティは、ふと頭の中をよぎった事を口にした。

「まさか……お前、マルの事が好き、なんてことねえよな」

 シャールーンはゆっくりと首を振った。ナティはそれを見てどういうわけかほっとした。シャールーンは再びマルの手紙を布で包むと、大切そうに袋の中にしまった。「私はこの詩が好きなの」と言わんばかりに。ナティはなんとなくこの子になら心を許せそうだと思った。ナティはシャールーンに向かって笑いながら言った。

「なあ、お前んとこの意地悪ばあさんはよくお前を学校に行かせよう、なんて気になったな。だいたいお前、女なのに。……実をいうと、俺もそうなんだけど……」

 ナティは口にした瞬間(しまった!)と思った。相手が口がきけないという安堵感から、つい言ってしまったのだ。ここ数日間のうちに溜まりに溜まっていたもやもやをどこかに吐き出したい衝動から思わず出た言葉だった。シャールーンの顔には少し驚いたような表情が浮かんだ。

「あ、あのさ、これ、人に言わねえでほしいんだ。だってほら、女なんていい事ねえだろ? お前ら踊り子はもうちょっと大きくなったら男と……ほら、何だ、気持ち悪い事するんだろ? ああいうのお前したいと思うか?」

 シャールーンは微かに首を振ったようだった。。

「なあ、俺もお前もカサン語の勉強してるだろ。俺は別に、カサン人が好きってわけじゃねえ。ただカサン人は金持ってる。カサン人を相手にすりゃ金もうけができる。それだけじゃねえ。言葉が分かれば相手の事がよく分かる。そしたら相手が俺達に悪い事したら、やっつける事も出来る。悪い妖怪と一緒さ。なあ、俺、お前と仲間になりてえんだ。男と気持ち悪いことして金かせがなくてもいいように、俺とお前でなんかデカイこと考えようぜ!」

 ナティの目に、シャールーンの口元がわずかに笑うように持ち上がったように見えた。

「何だよ! 俺、おかしい事言ったか? ……あ、なんか声がしたぞ。ミヌーじゃねえか? 今の話、内緒だぞ! 俺、あいつの事が大っ嫌いなんだ!」

 ダビやスンニの声も聞こえてきた。ナティは慌ててシャールーンの傍から離れた。

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