第92話 名前を授ける 3
マルの成績は、ヒサリが心配したように落ちる事は無かった。それどころか、自分がお行儀良くする事でカッシ分まで許してもらおうとするかのように、授業中の態度は以前に比べはるかに落ち着きが増してきた。子供っぽかった彼は日に日に少年らしくなり、ヒサリに対し以前のような無邪気な表情を見せる事も少なくなった。
(この子もようやく、師弟のけじめというものを理解出来るようになってきたんだわ)
ヒサリはマルの成長を喜びつつも、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。
ある日、ヒサリが「カサン帝国の精神」の授業を終え、
「これで終わります」
と言った時、ダビが不意に立ち上がった。
「先生! 川の向こうの学校の生徒はみんなカサンの名前をもらってカサンの名前で呼ばれています。俺達にもカサンの名前を下さい!」
ヒサリはダビの言葉を頷きながら聞いた。いつかは生徒からこんな要求が出るだろう、と思っていた。新たにカサン帝国の民となったアジェンナの人々は、早急にカサン風の名前を付け、住民登録する事が求められている。しかし改名や住民登録は高い身分の者から順次行われていて、より身分の低い者達は、カサン語教師によって子供達を中心に徐々に改名作業が進められている。彼らはピッポニア帝国時代には全く住民登録などされていなかった。ピッポニアの支配層、狡猾な白ねずみ達は、彼らを人間とも思っていなかったのだろう。
「はぁぁ? ダビ、お前、服だけでなく名前まで気取ったのが欲しいのか?」
ナティが嘲るように言った。
「誰でも自分の馴染んだ名前を変える事に戸惑いを感じるのは当然です。私はあなた達にすぐに名前を変えろとは言いません。ただ意味のある事だという事は言っておきます。カサンの名前には身分の上下はありません。今のあなた達の名前のように、聞いただけでどんな身分か分かる、という事はありません」
ヒサリはこう言いながら、次第に自分の言葉が熱を帯びてくるのを感じた。この国の名前は、姓に当たる部分が職業を表している。したがって名乗った瞬間、直ちにどの身分に属する者かが知れるのだ。そしてそれ以上にヒサリには許しがたい事があった。妖人として生まれた子は皆、およそ人間とは思えないようなひどい名前が付けられる慣習である。例えば「マルーチャイ」という名前はアマン語を知らない者にはかわいらしい響きに聞こえるかもしれないが「糞の付いた蠅」の意味である。ナティの正式名「ナティンワリー」は「飢えた獣」、ダビッドサムは「石で打たれる人」の意味だ。誇り高いダビの父親ですら息子にこんな屈辱的な名前を付けるのか、とヒサリは驚いた。ヒサリが「なぜあなた達はそんな名前なのですか?と尋ねると、ダビはすかさず「妖人は昔からそういう習慣なんです」と答えた。しかしすぐにその事のおかしさに気付き、ハッとした表情で口を閉じた。だからヒサリは予想していた。近いうちにダビが新しくカサン式の名前が欲しいと言ってくるだろう、と。
「よろしい。それでは私があなた方一人一人にふさわしい名前をつけようと思います」
「俺はそんなもんいらねえや!」
ナティはいきなり立ち上がって吠えた。
「俺はそんなものいらねえ! 二つも名前持ってどうすんだよっ! 尻を拭く役にも立たねえ! ……なあマル、お前も、親からもらった名前が気に入ってるだろ?」
マルはいきなり自分に話をふられて
「ウ……」
と呻くような声を出し。そのまましばらく言い淀んでいたが、やがて小さな声でこう言った
「おらは……おらの名前も、蠅も糞も好きだ」
教室の子ども達はドッと笑った。ヒサリは思わず声を荒げた。
「あなた方は人間です! 人間が蠅や糞などと呼ばれていいはずがありません!」
「あたしは付けてほしいなあ。ミヌーリーなんてありふれててつまんない。お姫様みたいな名前がいい!」
奴隷身分のミヌーとシャールーンは、妖人のようなひどい名前を付けられてはいない。シャールーンは「月光」という意味でミヌーリーは花の名前である。しかしミヌーは自分の名前に満足していないらしい。
「カサンの名前に『お姫様の名前』はありません。身分によって決まった名前など無いのです。けれどもお姫様を連想させるような優雅な名前を付けることはできます」
ミヌーはそれを聞くとパッと顔を輝かせた。
「ラドゥ、あなたはどうですか?」
「私も、身分によって名前付け方が違うというのは良くないと思います。ただ……」
ラドゥはそのまま口ごもった。
「どんな名前でも親からもらった名前は大事なもんだと思います」
平民身分のラドゥの正式名ラドゥカーンは伝説の英雄にちなんだアマン人に多い名で、「勇敢な」という意味がある。
「もちろん、私があなた方に名前をあげたからといって、あなた達のもともとの名前を使うことを禁じるつもりも取り上げるつもりもありません。カサンの名前を名乗るか名乗らないかはあなた方自身が決めたらいいことです」
ラドゥはそれを聞くと安堵したように頷いた。ナティは忌々しそうに腕を組んだまま言った。
「名前をただでやるって見せかけといて、どうせ後で何か要求してくるにちげえねえんだ。世の中ただ程恐い物はねえからな!」
この時、教室の後ろで一部始終を聞いていたバダルカタイ先生が不意に立ち上がった。
「オモ先生、この子の言う事はあながち間違っちゃあおりません。人の名前を付けるという事は、人にパンを与えるような事とは違います。その心を支配するということです。オモ先生はこの子達にそれをしようとしておられる」
「そんな恐ろしい言い方をしないで下さい!」
ヒサリはバダルカタイ先生の言葉を封じた。
「私はただ、この子達に人間としての尊厳を持って欲しいのです! この子達は卑しい名前で呼ばれるべきではないんです! 悪意ある言い方で子供達の心を惑わせるのはやめてください!」
「分かりました。余計な事は言わず、年寄りは速やかに立ち去ることといたしましょう」
バダルカタイ先生はそう言うなりゆっくりと立ち上がり、ヒサリに背を向けた。
「さあ、さあ、あなた達はもう帰りなさい」
ヒサリは戸惑った様子で二人の先生の応酬を見詰めている生徒達を促した。
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