第93話 名前を授ける 4

 ヒサリはその夜、机について子供達につける名前を考えながら、至福の時間を味わっていた。

(あの子達一人一人にピッタリの良い名前を付けてあげよう。すぐに慣れるように、なるべく元の名前と発音が近い方がいい)

 ヒサリは一人一人の名前を考えた。ダビにはカサン語で賢いという意味の「ダイ」、トンニには冷静なという意味の「トゥイ」、そんな具合でテルミには「テイ」、アディには「アニ」メメには「メライ」、ラドゥには「ランタ」、シャールーンには「シル」、ミヌーには「ミアナ」、ニジャイには「ニタ」、カッシには「カセ」……。ナティにも考えた。何故か一番に思いついた。「ナヤ」。「導く」という意味だ。とはいえ、あの子は「そんなもんいるか! 名前なんて豚にでもくれてやれ!」、と言うだろうけれど……。

そして他の皆の名前を考え終わってから、最後にマルの名前を考え始めた。あの子には……。一番愛してやまないあの子にはどんな名前を付けてあげよう? ヒサリはついにその日のうちに名前を考えることが出来なかった。翌日も、またその翌日も、ヒサリは暇さえあればマルの名前を考えた。

そして三日目の夜、一人部屋で報告書をまとめているヒサリに、ふと言葉が灯った。「マレン」。それは「光」という意味だ。あの子は残念ながら全身が醜いイボに覆われているけれども、あの子の才能やあの子の天真爛漫な性質は光そのものだ。あの子にはふさわしい名前だ。少なくとも、「糞まみれの蠅」なんて名前よりはずっと……。

 この時、扉がコトコトと鳴った。あの子だ、ということは扉の叩き方ですぐ分かる。ヒサリは立ち上がった。扉を開けたらマルがきっと「先生、おみやげです」と言って作文を差し出すだろう。ヒサリはマルが「おみやげ」と言って作文を自分に渡すのが好きだった。その言葉にはマルの特別な思いが込められているように思えた。しかし、この日、マルは扉を開けてもただ

「先生……」

 と言ったまま、ちょっぴりためらう様子を見せた。それからおずおずと丸めた紙をヒサリに差し出した。そしていつものように

「おみやげです」

 というと、サッと顔を横に向け、首を竦めてクスクスと笑った。マルのいつもと違う様子に、ヒサリは

「おや?」

 と思った。ヒサリはマルから受け取った紙を開くとすぐ目についたのは「うんこ」という言葉だった。

(まあ……何てこと!)

 マルには、いろいろ汚い物を拾って来て遊び道具にする困った癖があったが、それだけではない、マルの作文には美しいものだけではなく醜いものまで登場する。ヒサリはマルの書いてくる作文の文法の誤りや字の汚さは厳しく指摘したが、内容に関しては全く自由に書かせていた。その結果マルは何でもかんでも好きな事を書いてくるようになった。川面を輝かせながら落ちてゆく美しい夕日の事も、死体にむらがる蠅や恐ろしい妖怪の事も……。そして最近は男の子らしいいたずら心が芽生えてきたのか、少々下品な事も書いてくるようになった。つい先日はカッシとおしっこの飛ばし合いをした事を書いてきたと思ったら今日はうんこだ! ヒサリはサッと作文に目を通した。それは、マルが川を見詰めながら次々流れてくる人間や妖怪のうんこについて面白おかしく書いたものだった。それはマルが描くとうんこの話もユーモラスでなんとも楽しい。ヒサリは読みながら笑いを抑えるのに必死だった、「こういう事は書くな」、などと言って彼が委縮するような事はしたくない。それでも彼には一言注意しておかねばならないだろう。

「いいですか、このような内容を書いて渡す相手は、よほど気ごころの知れた親しい人でなければなりません。おみやげなどと言ってこんな物を人に書いて渡すのは人の家の前に汚物を置くようなものです。何かを書く時には、常に誰が読むか、読んだ人がどう思うかを考えなければなりません」

 マルは下を向き、イボだらけの両手をモジモジと擦り合わせた。

「ただし、言葉とは美しいものを描くためにだけあるのではありません。あなたがこういったものを書きたいのであれば書いても構いません。けれどもそれは、私に書く時だけにしなさい。普通は認められる事ではありませんよ」

「はい」

 マルは頷いた。そして回れ右をして帰ろうとしたところを、ヒサリは再び呼び止めた。

「さっきまで、私はあなたのカサンの名前を考えていたんです。そして思いつきました。ハン・マレンというのはどうでしょう。『ハン』が姓、『マレン』が名前です」

 マルは口の中で「ううっ」と呻き、胸の前で握り拳を作った。興奮しているのだ。もちろんマルは「ハン」がカサンの偉大な詩人から取ったものであることも、「マレン」が「光」という意味であることも知っている。マルの半分潰れた目の奥から嬉しそうな光が滲み出るのが分かった。

「……ありがとうございます……」

 マルはそう言ったまま立ち尽くしていた。

「気に入ったなら、あなたの事をこれから教室ではハン・マレン」と呼ぶことにしますよ」

「はい……ありがとうございます!」

 ヒサリは、マルの馬小屋に走って行く足音が何だか歌のように軽やかだった。その音が消え去ってもなお、ヒサリは余韻を楽しむかのように扉を開けたまま、夜の虫や鳥達の鳴き声に耳を澄ませていた。

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