第90話 名前を授ける 1

「ダヤンティ も一つ薪を手に取って 炎の中に放り込む 炎はますます背伸びして  必死でお歌うたったよ あんまりおかしな歌なので お鍋はぐつぐつ笑い出す」

 ヒサリが授業を終えて自分の部屋に戻る間、夕食の準備をしているダヤンティの歌声が聞こえてきた。マルが作った「ダヤンティが夕ご飯を作る」という歌をダヤンティ自身が気に入り、何度も歌っているのだ。

ヒサリが部屋の扉まで来た時、ダヤンティが、

「オモ先生」

 と呼び止めた。ヒサリは振り返った。

「今日もあのカッシの分も食事を作ってやらなきゃいけないんです?」

「ええ、すまないけど、手間でなかったら」

「手間だなんて、そんな事ありませんよ。ただあんな薄汚い子、いつまでここに出入りするのかと思うとうんざりしますよ」

「汚い格好をしているのはマルも同じでしょう」

「あら、マルは心のきれいな子ですよ。でもあのカッシときたら、心の中まで薄汚れています」

 ダヤンティがこう言いたくなる気持ちはヒサリ自身もよく分かった。マルを目にした者は誰でもイボだらけの醜い姿に眉を顰める。しかし、ひとたび彼と言葉を交わす程の仲になると、誰一人マルの事を悪く言わなくなる。誰もが愛嬌たっぷりのマルの話し方や無邪気な性質、美しい歌声の虜になる。一方カッシはマルとは全く違い、外見と同様粗野で愚鈍な子どもであった。ただ、ニジャイのような何を考えているのか分からない薄気味の悪さは無かった。ナティのように授業中反抗的な態度を取るわけでもない。教室ではぐりぐりした目でキョトンとヒサリの方を見詰めているばかりで、授業の内容が頭に入っている様子は無かった。ただ食べ物にありつくために来ているのは明らかだ。しかしそれでもカッシに食事をやらないわけにはいかなかった。カッシがマルのそばで「おら、腹減った」と言えばマルが自分の分をやってしまうからだ。

 さらにヒサリを悩ませたのは、どういうわけか二人のウマが合うらしいことだった。ヒサリの目には、カッシがマルの勉強の邪魔をしているように見えて仕方が無かった。その点、ヒサリに反抗的なナティは、マルにとってカサン語の勉強時間が大切な事は心得ていて、マルがカサン語の本を読むために馬小屋に戻ると自分は家の手伝いをしにさっさと家に帰ってしまう。しかしカッシは違った。授業が終わってもマルと一緒に馬小屋に行き、マルと話し込みながらずうずうしく食事を待っているのだ。

マルはもともと整理整頓が苦手な上に、汚い物を拾って馬小屋に持ち込む悪い癖があったが、カッシと一緒にいるとそれに拍車がかかった。そして二人で体のノミや気味の悪い虫を取り合い飛ばし合いをするなど子どもっぽいばかげた遊びに興じるのだった。マルが小屋を散らかしても母親のようにかいがいしく掃除してやるダヤンティだったが、カッシについては悪口が止まらない。

「先生、あのカッシが寄り付かないようにするわけにはいかないんですか?」

ダヤンティがそう言う間も、馬小屋からマルの鈴を鳴らすような澄んだ笑い声とカッシのかすれた低い笑い声が絡み合って聞こえてきた。笑い声だけ聞けば、二人共無邪気そのものだ。

「私はどの子の可能性も大切にしたいんです。マルだって来たばかりの頃はとてもお行儀の悪い子でしたよ」

「マルとカッシじゃもともとの性質が違いますよ。カッシは山のもんです。先生はご存じでないでしょうが、山のもんは怪しい薬を売ったりコソ泥をしたりして金を稼いだり、何をしでかすか分かりません。それにカッシの母親がまただらしないインチキ祈祷師なんですよ」

「母親がそうであっても子どもに罪はありません。もう少し様子を見ましょう」

 どうにかダヤンティをなだめたヒサリだったが、そんなヒサリも夜が更けてまだマルとカッシがふざけて笑い合う声を聞くと、怒りが込み上げ、何度か馬小屋へ行って扉を叩いた。

「あなた達! 宿題は済んだの!? カッシ! あなたにはお母さんがいるのでしょう! そんな風にふざけて遊ぶならお母さんの所へ帰りなさい!」

 カッシはこんな風に叱られてもただキョトンとしてヒサリを見返すばかりだった。

「マルもマルです! 以前はあなたはこの時間カサン語の本を読んでいました。それが今はカッシと遊んでばかりじゃないですか!」

「ごめんなさい、ちゃんと勉強しますから……」

「カッシ、あなたは母親がいるんですから、夜は母親の所に戻るべきです」

「でもカッシのお母さんは祈祷の仕事が忙しくて夜はいつもいないんです」

 ヒサリはマルが必死で友を擁護しているのを聞きながらやきもきしていた。数日前、ヒサリはニジャイにこんな風に耳打ちされたのだ。「カッシの母さんは毎晩いろんな男の所に行って腰を振ってるんですよ……」。ヒサリは不思議だった。薄汚い身なりで若くも美しくもない、どこか間の抜けたカッシの母親になぜそんな事が出来るのか。しかしたとえそれが事実だとしても、それをこの二人に言うのは気が引けた。

「とにかく勉強しないのならここにいる事は認めません!」

「さあ、勉強しよう」

 マルはあくまで友を守るのだという風にカッシの体に腕を回した。ヒサリは溜息をついて引き下がるより他無かった。

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