第89話 祈祷師の子カッシ 13

 森にたどり着いた時、ヒサリは一瞬、絶望感に襲われた。

目の前に広がる森はあまりに広大で、あまりに魑魅魍魎な底無しの闇であった。この中に小さな子どもがたった一人で入って行ったなど、とても信じられなかった。闇雲に彼の姿を追って森に入ったところでマルを見付けられるはずが無い。

「マル! マル!」

 ヒサリは声の限りに叫んだ。勿論、返事など聞こえるはずがない。ああ、いっそのことこの森を焼き払う事が出来たら! でもそんな事をしたらマルまで焼け死んでしまうだろう!

「マル! マル!」

 ヒサリはひたすら叫び、馬を進めた。しかし聞こえてくるのは不気味な鳥や獣の鳴き声ばかりだった。その時だった。

「ヒサリ先生!」

 自分を呼ぶ声に、ヒサリはハッとして振り返った。そこに立っているのはラドゥだった。

「学校の帰り、ニャイおばさんに会った。マルを森の際で見かけたと聞いて心配になって来ました」

 ラドゥの後ろにはダビやトンニの姿もあった。

「先生、耳を澄ませていたら、森の妖怪が何か言っているのが聞こえます。マルの居場所も聞き出せるかもしれません」

 トンニがいつものように落ち着き払った声で言った。

「森の妖怪の声ですって!? あれは鳥や獣の声ではないのですか!?」

「先生には多分聞こえないと思います。でも妖人なら大概何か聞こえます。全部じゃないですけど。それぞれ、聞こえる声と聞こえない声があります。みんなの力を合わせたら、きっと何か分かるはずです」

 そう言ってトンニは、森の妖怪の声に耳を傾けるかのように目を閉じた。

「先生……先生!」

 小さな可愛らしい声がした。テルミだった。その横にはメメもいる。テルミはマルが馬小屋に置いている楽器を手にしていた。

「ここにはね、死んだ女の子がいるの」

「ええ!?」

「死んだ女の子の心がここに宿ってるの。死んだ人はおら達よりもっと妖怪と話が出来るから、きっと妖怪も答えてくれると思います」

 テルミはそう言って楽器を地面に置くと、ぽん、ぽん、と弦を弾き始めた。その横にメメが座り、何かまじないのような言葉をつぶやいていた。ヒサリは長い事それを黙って聞いていることが出来なかった。

「何か聞こえますか?」

 ヒサリには妖怪の声など聞こえたことがい。そのような怪しげな能力など信じてもいなかった。しかし今ではそれにすがる気持ちでいっぱいだった。特に、冷静なトンニがそう言った事で、ヒサリの胸に確かな希望の灯がともった。ヒサリはさらにこちらに向かって来るシャールーンやミヌーリーの姿も目にした。ああ、ミヌーなんて、普段マルに悪態をついてばかりいるのに! 

(ああ、こんなにもみんなに愛されてる子なんだわ! ああ森よ! 森に住む妖怪よ! どうかあの子を返して! お願い! お願い! お願い!)

 ヒサリはきつく目を閉じた。

「マル! マル! どこにいるんだ! 返事をしてくれ!)

 ナティの声が聞こえてきた。ヒサリが声の方振り返る。その褐色の顔は真っ赤に火照っていた。ナティはヒサリと生徒達のいる所まで来ると、チラリとヒサリの顔を見たが、すぐに楽器の弦を弾いているテルミに向かって言った。

「おい、何か聞こえるか?」

「ううん、まだなんにも」

 ナティは目を閉じ、じっと耳を澄ませる様子を見せた。ナティの大きな耳はピクピクとそれ自体が生きているように動いた。

「おい! 何か今、蜘蛛の精の声が聞こえた……まだ子どもだな。でもどっちの方角か分からない! テルミ、もうちょっとしっかり弾いてくれ!」

 テルミがボン、ボン、ボン! と前よ強く弦を叩き出した。

「ああ、ダメだ! 聞こえなくなった! チクショウ!」

 ナティは地団駄を踏んだ。

「そんな弾き方じゃあダメよぉ。全然でたらめじゃない!」

 ミヌーがあざ笑うよう口を挟む。

「お前、弾けるのかよ!」

 マルがミヌーに詰め寄った。ミヌーは「しまった!」という様子でペロリと舌を出した。

「弾けよ!」

「イヤーだ。なんでマルの抱いてた汚いスヴァリをあたしが弾かなきゃなんないの!」

「弾けったら! 時間が無いだろ!」

 ナティに押し付けられて、ミヌーは渋々スヴァリを抱えて弾き出した。ミヌーはしゃがんでスヴァリを膝の上に抱えると、ポロロンポロロンと器用に曲を奏で始めた。ナティは再び目を閉じ、じっと森の声に聞き入った。

「やっぱり聞こえる。今度ははっきり。間違いない。音に合わせて踊ってるみたいだ。ミヌー、俺がいいって言うまで弾くのやめるな」

「もう曲が終わっちゃう」

「だったら次の曲弾け! それしか弾けないなら何回も同じのを弾け!」

 ナティはそう言うなり腰にさしていた竹やりを抜き、地面に鬱蒼と生えている草を薙ぎ払いながら森の中へと突き進んで行った。ヒサリもすぐにナティの後を追った。それに気付いたナティが、サッとヒサリの方を振り返って言った。

「危ないから来るな! あんたは妖怪の事なんかなんにも分かっちゃいねえ!」

「行かないわけにはいきません! あの子は私の大切な教え子です!」

 ヒサリはきっぱりと言った。ナティはまるでヒサリの追いつかせまいとするかのようにものすごい勢いで草を払って突き進んで行った。ヒサリも必死でナティの姿を見失わないよう後を追った。やがて、ナティがいきなり立ち止まった。

「蜘蛛の精の子どもがいる! すぐ近くにいる!」

 しかしヒサリには何も分からなかった。

「おうい、君! イボだらけの男の子を見なかったかい!?」

 ナティは目の見えない何者かに向かって声をかけていた。ヒサリもじっと耳を澄ませた。その時、ヒサリの耳に聞こえてきたのは、妖怪の声ではなく、少年の、あの耳慣れた鈴を鳴らすような声だった。

「ヒサリ先生~~!」

(マルだわ! マルが呼んでる!)

 ヒサリは声に向かって駆け出した。

「危ない!」

 ナティにいきなり腕を掴まれた。

「マルの声が聞こえたの、あの子が私を呼んでる!」

「今、蜘蛛の精の子がマルの居場所を教えてくれた。こっちだ!」

 ナティはそのまま竹やりを激しく振り回しながらザクザクと草をかき分け走り出した。その姿はあっという間に見えなくなった。ヒサリも、ナティが草を踏みしめた後を進んだ。

「マル、私よ! 私よ! 私よ! もうすぐあなたの所に行く!」

 ヒサリは、いつしか体が泥にまみれているのが分かった。このまま進み続ければ体までが泥になって森に溶けてしまうのではないか。しかし、たとえそうなったとしてもこの熱い思いだけは永遠にこの森に残るだろう。

 その時だった。ヒサリの体はいきなり、ぽっかり開けた空き地に飛び出していた。ヒサリは虚を突かれたように一瞬呆然とそこに立ち尽くした。そこだけが、まるで妖怪に食い散らかされたように木や草が無くなっていて、わずかばかりの残骸が残っていた。荒々しくも、どこか神秘を感じさせる光景だった。そして、その森の中の広間の真ん中に、マ仰向けに横たわっていた。一足先にたどり着いたナティがマルの横にしゃがみ込んで必死に

「マル! マル!」

 と叫んでいる。ヒサリはすぐにマルの横に飛んだ。

「起きなさい! 目を開いて!」

 ヒサリがマルの手を取ったその時、マルの目がうっすらと開いた。

「ああっ!」

 ナティが呻いた。マルは何も言わないまま、じっとヒサリの目を見詰めていた。……ああ、イボイボで半分潰れてさえいなければ、どれ程かわいらしい目だろう! ヒサリの目から涙が溢れかけたが、それをぐっと堪えて言った。

「どこか痛い所は? 苦しくはない?」

「いいえ」

 マルはそのまま口を閉じていたが、やがて再び口を開き、

「ヒサリ先生」

 と言った。

「なんでこんな所に来ちまったんだよう! ここに散らばってるのはみんな、森ワニが食い散らかしたもんじゃねえか!」

 ナティが叫んだ。ヒサリはこの時ようやく、周りに転がっている白いキラキラしたものが動物の骨だということに気が付いた。

「森ワニに見つかったら食われるところだったじゃないか!」

「うん。おら、森ワニの口の中にうっかり入っちゃって飲み込まれそうになったんだ」

「何だって!」

「何ですって!」

 ナティとヒサリは同時に叫んだ。

「でも森ワニはおらがイボイボの子だって気が付いて慌てて吐きだしたんだ。ほら、森ワニはイボイボの子を食べたら体が腐って死んじゃうから。おら、思い出した。イボイボのトゥラの話! トゥラはそう言って難を逃れるんだ」

 マルはそう言って小さな笑い声を立てた。ヒサリはその笑い声を聞いてようやく安堵の溜息をついた。

(ああ、いつものマルが戻ったわ!)

「笑い事じゃないだろ! イボイボの子だろうがうっかり飲み込んじまう妖怪だっているんだから!」

 ナティが怒鳴り声を上げた。

「マル! 大丈夫か!」

 ヒサリがサッと振り返ると、そこにはラドゥが立っていた。ラドゥはマルのそばで膝を付き、がっちりした腕を差し出し、

「立てるか?」

 と尋ねた。マルは頷き、ラドゥにつかまって立ち上がった。

「歩けるか? おぶって行ってもいいぞ」

「ううん。大丈夫」

 マルはそう言って、ラドゥとナティに両側から支えられてフラフラと歩き出した。程なくいつものマルの歩き方に戻った。ヒサリは、三人の後ろを歩きながらマルの小さな背中を見詰めていた。いままでこらえていた涙がこんこんと湧き出た。ヒサリは何度もそれを掌で拭った。

 うっとうしい草の茂みが途切れ、怪しい者達の住む森から出ると、世界は既橙色の夕焼けに包まれていた。そして森の入口にはダビ、テルミ、メメ、シャールーン、ミヌーリー、アディがひと塊になって立っていたが、マル達の姿を見たとたんわっと歓声を上げた。

「みんなみんな来てくれたんだね」

 マルはいくらかきまり悪そうに言った。

「お前が心配かけるからじゃないか! お前は自分のした事が分かってるのか!?」

 ダビがいきなりマルを叱りつける。マルは下を向いた。

「待って。悪いのは私です。マル、あなたをぶったりしたのは悪かった。謝ります」

「オモ先生が謝ることなんかありません! 川向こうの学校ならもっとひどく鞭でぶたれます。こんな事でめそめそするようじゃ俺達はばかにされるだけだ!」

「もう言うなよ。マルがせっかく戻って来たんじゃねえか」

 ナティが言った。

「カサン人の子どもの学校はどこも厳しいんだ。それに耐えるからこそ、カサン人は強くて立派な国を作る事が出来。そうでしょう!」

 ヒサリは興奮しているダビを制しながら言った。

「私は決してあなた達を甘やかしてはいませんよ。ただ鞭は使わない、ということです。……マル、森が危険な所だという事は分かったでしょう。二度とやけを起こしてこんな所に来てはいけません」

 マルはコクンと頷いた。

 ヒサリと子ども達は、集落に向かって歩き出した。

(今夜はダヤンティに頼んでマルに美味しい物を用意してもらおう)

 ヒサリは思った。ミヌーがマルに近付き、手にしていた楽器をマルに向かって突き返しながら言った。

「ほら、これあんたのでしょ! 返すわよ!」 

 マルは慌てて楽器を受け取った。ミヌーがマルからサッと離れると、こう呟いたのをヒサリは聞き逃さなかった。

「マルのこと素手て叩くなんて、オモ先生はよっぽどマルのことが好きなんだわ!」 

 ヒサリはハッとした。幸い、他の生徒達はミヌーの今の言葉を聞いてはいないようだった。しかし歩きながらヒサリの胸の内は激しく波立っていた。

(そうじゃないわ。私はあの子の才能を伸ばし、貧しい環境から救い出し、立派なカサン帝国臣民にしたいだけよ! 妙な事を言うんだから!)

 ヒサリがじっと見つめているマルの背中がいきなり止まった、振り返って森に向かってこう言った。

「さようなら、蜘蛛の精! ごめんね。おらはもう森に遊びにに行けないんだ」

 ヒサリはそれを見た瞬間、自分の胸に微かな痛みを感じた。

(この子達は、私達には見えない、聞こえないものとつながっているんだわ……)

この時、マルと目が合った。マルは、何かヒサリの言葉を求めるかのようにじっと目を離さなかった。

「……さあ、日が暮れないうちに早く帰りましょう」

「はい、先生」

 一時の激しい雨は止み、藍色の空には一番星が見えていた。あの星はヒサリの故郷でも見る星だ。しかしこの国で見ると何と大きく美しく見えるのだろう! ヒサリは感動に打ち震えたまま、ひたすら生徒達の後ろで足を運んでいた。

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