第88話 祈祷師の子カッシ 12

 ヒサリがマルの顔を平手で打ち、マルが教室の外に飛び出して行く間、教室にいたダビ、トンニ、ラドゥ、シャールーン、ミヌー、アディ、ニジャイはただあっけにとられた様子で黙りこくっていた。ヒサリ自身、自分がした事に一瞬呆然とした。なんとか自分を落ち着かせようと

「授業を始めます」

 という言葉を振り絞った時、ラドゥが

「あのう」

と言って立ち上がった。

「先生、あんな小さな子を叩くのは間違ってると思います。それにマルは口で言って分からない子じゃありません。それにマルが自分の事を卑しいと言うのは周りの人に言われてるからです。マルが悪いんじゃありません」

 ヒサリは聞きながら、ラドゥの言う事はもっともだと思った。

「確かにマルを叩いたのは間違っていました。あの子が戻って来たら謝ります」

 ヒサリはそう言ってそのまま授業を進めた。しかし授業が進むに連れて、次第に不安が募ってきた。

「あの子、このままバカな事を考えなきゃいいけど……」

 他の男の子なら、教師に一度や二度叩かれたところで少しシュンとする位でじきに立ち直るだろう。しかしマルは母親にひたすらかわいがられて育った繊細な子だ。それに気まぐれでどこか予測出来ないような所がある。しかも母親が必要な時期に母親がおらず、情緒も不安定だ。

ヒサリは授業を終えても教室から立ち去る事が出来ず、椅子に腰を下ろしたまま、マルが今にも木立の向こうから姿を現さないかと待った。しかしマルはやって来ない。風すらも、木々の葉を揺らそうともしなかった。

ヒサリはこれ以上じっとしておれず、ついに立ち上がり、馬を出し、川に向かった。ヒサリの心臓は体から飛び出し、先へ先へと転がって行くかのようであった。    

 程なく、道の向かい側からやって来る真っ黒な親子の姿が目に飛び込んで来た。ヒサリに気付くやいなや、母親の方が

「ああ!」

 と声を上げた。

(私に何か用があるらしいわ)

 ヒサリは程なく、二人が祈祷師の親子である事に気が付いた。非常に貧しい親子で、子どもはマルに負けず劣らずみずぼらしい格好をしている。顔は垢だらけで元の肌の色が分からず、髪はクシャクシャだ。そして親子でそっくりなグリグリした丸い目が、押し付けがましい程ヒサリを見つめている。

「ああ、先生、ご親切な先生! この子はマルと仲良しで、マルがこの子と一緒に勉強しようと言ってくれたんです。どうかどうかこの子にもお恵みを下さいませ」

「マルと仲良しなの? 今日、あの子とどこかで会いましたか?」

 ヒサリは尋ねた

「森の近くで会いました。そしたらマルはうちの子に学校においでと言ってくれたんですよ。あの子はうちの子のためにこんなものまで書いてくれて」

 女が取り出したのはヒサリが数日前にマルに渡した本だった。女が指で示した箇所には、間違い無くマルの字が書かれていた。ヒサリはそれを読むなりゾッとした。

「マルに会ったのは森のどの辺り!?」

 ヒサリは女からマルと別れた場所を聞き出すやいなや、馬に鞭を当てて走り出した。その場所は村人達が「森の口」と呼んで恐れている人里離れた場所だった。「森の口」から奥に向かって百歩も進むと永遠に出られなくなり、底なし沼に沈むか恐ろしい妖怪か野獣に食べられて死ぬと人々は噂している。

(行っちゃダメ! マル! その先に行っちゃダメ! 戻って来て! 二度とあなたのことを叩いたりしない! あなたは私の光なのよ! あなたの笑い声やあなたのおみやげに私はどれだけ慰められたことか……)

 その時だった。突如、ヒサリの目の前に真っ黒な生き物が飛び出してきた。ヒサリが慌てて手綱を引いた。目の前に立ちはだかっているのはナティだった。

「マルと今日会おうって約束したのにいないんだ! どこを探してもいないんだ! ここにいるのか!」

「今日、私はあの子をきつく叱り、頬を打ちました。そしたらあの子は教室を飛び出して行きました」

「何だって!」

「おそらく森へ行ったのでしょう。私はこれから森へ向かいます」

「森が……森がどういう所か、てめえ、分かってんのかよ!」

 ナティはヒサリの馬の脚に噛みつかんばかりの勢いで詰め寄った。

「どきなさい! 私は急いでいます」

「もしマルが死んだらお前を殺してやる!」

 ヒサリは自分を睨みつけている目を見詰める返しながら言った。

(この子は本気だわ。マルが死んだら本当にそうするだろう)

ヒサリは思った。

「そうしたいならそうすればいい。でもマルは決して死にませんよ!」

 ヒサリはそう言って、馬に鞭を当てた。そうだ。神様はあれ程の才能を授けたあの子を見殺しにするはずが無い! 祈りのような気持ちに導かれるように、ヒサリの体は前へ前へと運ばれて行った。ナティの前では強気な態度を取ったけれども、不安で後から後から顔に流れる涙が風に散らされていく。


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