第87話 祈祷師の子カッシ 11

 マルは遠ざかって行く二人の背中を見詰めていた。二人の背中が完全に見えなくなってから、マルは森の奥に向かって足を進めた。辺りは急に暗くなり、背の高い木の間に茂る背の低い草の、むん、という息がマルの体を締め付けた。さらに尖った草はマルの体のイボを刃のように削った。マルは全身のイボがはじけて汁と血がズルズルとしたたり落ちるのを感じた。マルは歌物語の中の主人公トゥラが森の中でさまよい妖怪に出会う場面を思い出していた。

(だけど、おら、森の中をさまようって事がこんなに痛くてつらいだなんて知らなかった)

 つぶれたイボの膿が目の中に入り込み、ほとんど何も見えなくなった。

その時だった。突如、全身が網にかかったように全く前に進まなくなった。マルはびっくりして手足をバタバタさせてもがいた。顔を動かすと顔に何かねちゃねちゃした物がへばりついた。この時、マルは背中がスーッと寒くなるのを感じた。

「フフフフ、ついに人間がつかまった!」

 下の方から、耳をひっかくような声が聞こえてきた。マルは一度閉じた目を恐る恐る開けてその姿を見た。それは蜘蛛の精の子どもだった。

「蜘蛛の精、おらは君の作った家にかかったんだね」

「家を作ったのはあたしじゃなくて母さんよ」

 ちっちゃな蜘蛛の精は答えた。

「あたしはこうやって、糸で壁にお絵かきしてんの」

 蜘蛛の精はキキキキ、と笑った後、マルになぞかけを始めた。

「ねえ見て見て! これ、何の絵だか分かる?」

「うーん……鳥かな?」

「ちがうちがう、コウモリよ! ねえねえこっちは?」

「うーん、人間みたいだけど」

「ちがーう、猿でした!」

 マルと蜘蛛の精の子はしばらくそんなやり取りを続けた。マルはひょいと尋ねた。

「ねえ、君の母さんが戻ってきておらを見付けたらおらを食べる?」

「うん、食べるよ!」

 マルは思わずゴクリと唾を呑み込んだ。

「母さんはきっとあんたをちぎってあたしにも分けてくれる。指をちぎって、それからおちんちんをちぎって、それから目玉をくり抜いて」

「おら、痛いのは嫌だなあ」

「あたしもあんたのこと食べたくない。だって、人間って前に一度食べたことがあるけどすっごくまずいんだもん。おまけにあんた、イボだらけで、すごくすごーく不味そう」

 その後、蜘蛛の精の子は再び

「ねえねえ、これ何に見える?」

 と自分の描いた糸の絵の謎かけを始めた。マルはそれに答えながらも、気持ちはそれどころではなく、少しずつ頭を動かして周囲を見回した。蜘蛛の精の家は驚く程広大で、森の奥の奥にまで広がっているようだ。そして張り巡らされた糸は、漆黒の闇の中で月の光を受けてキラッキラッと輝いて見えた。その様子はまるで歌物語に出て来る壮麗な御殿のように見えた。あまりの美しさに、マルはしばらくの間恐怖も忘れて見とれていた。糸の家のあちこちに動物や鳥が引っ掛かって動いている。生きているのか死んでいるのかも分からない。ここは巨大な神殿で、それらは森の神に捧げられた供物のようだった。とても厳か光景だった。マルはその様子を見詰めているうちに、自分に降り注ぐ月光が恐ろしく冷たいと感じた。

 その時、不意に、蜘蛛の精の子がマルの周りの糸をパチーン、パチーンと切り始めた。

「何をしてるの?」

「あんたのこと逃がしてあげる。だってあんたのこと食べたくないもん!」

 再び手足が自由になったとたん、マルはホッとした。そして思った。

(指やおちんちんをちぎられながら死ぬなんてやっぱり嫌だ。死ぬのは嫌だ!)

「それにあんたを食べちゃったらもうあんたとは遊べないでしょ! さあさあ、母さんが戻ってくる前に逃げてよ!」

 マルは蜘蛛の精の子にせかされるままに茂みをかき分け進んだ。手足や顔にはまだ糸が絡まっていたが、払いのけるいとまも無かった。死ぬなんて馬鹿な事を考えたと思った。今川向うの母ちゃんの所へ行ったって怒られるだけだ。それにニャイおばさんは、おらがヒサリ先生にかわいがってもらってるって言った。自分がどれだけ恵まれているか分かっていなかったんだ! 食べ物だけでなく本までもらってるのに……。それなのに死のうなんて考えた自分が恥ずかしい。

(妖怪だっておらを食べるのを嫌がる位だもの。それなのに先生に抱いてもらおうだなんて、そんな事……!)

 帰ったら先生に謝ろう、と思った。

 やがて、ごうごうと森全体を轟かすような雨音が聞こえてきた。雨粒は木々の葉の上で大きな塊となり、マルの全身に襲い掛かってきた。マルは悲鳴すら上げられなかった。一刻も早くヒサリ先生の馬小屋に戻って藁の中に身を沈め、ランプの明かりに照らされたかった。マルは草をかき分けかき分け進んだ。しかしまるで新たな壁が目の前に次から次へと立ちはだかる。行けども行けども森は終わりにならなかった。マルの体は恐ろしさではちきれそうだった。来る時は無我夢中で、あっという間にここにたどり着いた。けれどもいざ帰ろうとすると、行けども行けども底無しの海に沈んで行くかのようであった。

「おら、死にたくないよう、ヒサリ先生、ヒサリ先生、ヒサリ先生……!」

 しかしマルの耳に聞こえるのは激しい雨が木々の葉に当たる音と、ほうほうという妖怪か鳥か分からない者達の声ばかりだった。マルは疲れ果て、その場にペタリと膝を付いた。そのまま体ごとゆっくりと地面に倒れかけたその時、少し先に森よりも黒い穴がぽっかり開いているのが見えた。

(あれは……洞窟?)

 マルは残りの力を振り絞り、黒い穴に近付いた。自分の体を痛めつける雨と手足を切りつける草からひと時でも逃れたい。マルは洞窟の中に身を横たえ、少しばかりホッとした。洞窟の中は生暖かく、何か腐ったような変な匂いがした。床は柔らかく、温かくぬめぬめしていた。それはマルがこれまで一度も経験した事の無い感覚だった。しかし、雨がしのげるというとろけるような安堵と共に、強い眠気に襲われた。

(ここで一晩過ごして、朝になって明るくなったら先生の所に戻ろう。そしてごめんなさいって言おう……)

 そう思ったその時だった。突然、頭の上にぐおーんと何かがのしかかってくる気配がした。と同時に熱風と強烈な匂いとが全身を包んだ。

(あ、ああーーー!)

 マルはその時、森の中で大きな口を開き、人間や動物が飛び込んで来るのを待っている妖怪「森ワニ」の事を思い出した。

(うっかり森ワニの口の中に入ちゃったんだ!)

 森ワニが口を閉じたら決して外に出る事は出来ず、そのまま腹に飲み込まれて死んでしまう。マルの足元が大きく波打つように揺れ、それと共に自分の体が森ワニの体の中にグイグイと運ばれて行くのが分かった。

(ああ! おら死んじゃうよう! ヒサリ先生! ヒサリ先生! ヒサリ先生……!)

 マルは、外には決して出る事の無い声で叫んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る