第86話 祈祷師の子カッシ 10

 ずっと川辺に住んでいたマルにとって、森は恐ろしい場所だった。

(でも、怖くなんかない! 死んだら母ちゃんの所に行けるんだから!)

背中の川のお喋りが遠ざかり、しばらく歩いていると今度は目の前に真っ黒な森がだんだんと広がってきた。この時、全身がスーッと冷たくなったのを感じた。マルは思わず足を止め、まるで海のように広がる底無しの深い闇を見渡した。

(行くんだ! 行くんだ!)

 マルは自分の恐れを振り払うように両腕を大きく回した。

その時だった。マルは頭上で、自分に向かって呼び掛ける声を聞いた。

「マル!」

 マルはハッとして顔を上げた。頭上の木の枝には、巨大な梟……ではなく、梟のような人間の子どもがとまっていた。薄暗い所に開かれたまん丸な目は金色に光って見えた。マルはしばらくあっけにとられて見ていたが、やがてそこにいるのが祈祷師のニャイおばさんの息子のカッシであることに気が付いた。その手には彼が始終吸っている水煙草の竹筒が握られている。

「おめえ、なんでこんな所にいるんだ?」

 そう尋ねられ、マルは慌てた。いつも川のそばにいる自分がこんな所に来ているので不思議がっているに違い無い。

「……うん……あのう、ちょっと気が向いて……」

 マルはしどろもどろになって答えた。

(このまま森ん中入ったらカッシに怪しまれちゃう!)

 マルはカッシがいなくなるまで待とうと少し休むふりをしてハアと息を吐き、その場にしゃがみ込んだ。その時だった。

「ああ、マルじゃないか!」

 森の奥の方から、カッシによく似た真ん丸な目をした女の人が飛び出して来た。カッシの母ちゃんのニャイおばさんだ。

「マル! あたしゃあんたにずっと頼みたいと思ってたことがあるんだよ」

 マルはあっけにとられた。おらに頼みたい事? 一体何だろう?

「あんたの母さんはあんたの兄さん達の事で随分あたしを恨んでるみたいだけど、ありゃしょうがなかったんだよ。上の兄さんは、死んだ嫁さんがあんまり強い力で引っ張って行ったし、色の白い兄さんも強い力で連れていかれたんだ。あたしゃ出来る限りの事をしたよ。あんたの母さんからお金をもらって何もしなかったわけじゃないんだ。分かってくれるだろう、ねえ、マル!」

「…………」

 マルはニャイおばさんの顔をぼんやり見詰め返した。マルは上の兄さんの事はよく知らないけど、母さんからだいたい話は聞いている。ダムという妖怪を作る仕事から逃げ出してようやく家に戻った兄さんだったが、兄さんがいない間にお産で死んだお嫁さんの霊に引っ張られてあっちの世界に行ってしまったんだと。母ちゃんは兄ちゃんの魂を呼び戻してもらうためになけなしのお金を渡してニャイおばさんに祈祷を頼んだけれども叶わなかった。

色白のサーミ兄ちゃんの時もそう。母ちゃんは人の悪口や恨み言なんかめったに言わなかったけど、このニャイおばさんの事だけは、「あの真ん丸の目玉をくり抜いて妖怪どもの餌にでもしてやりたい!」などと言っていた。どうして目の見えない母ちゃんはニャイおばさんの目が丸いってことが分かったんだろう? 不思議に思いながらマルはニャイおばさんの顔を見詰めていた。母ちゃんだけでなく、周りの大人はみんなニャイおばさんの悪口を言っている。ニャイおばさんは怪しい「山のもん」で、「山のもん」はみんな人の心を迷わせる薬を売っている、その薬を飲めば一時天国にいるような気分を味わうけど、その後地獄の苦しみを味わうことになるんだって大人達は噂している。それどころか、ニャイおばさんやカッシのことをコソ泥だとか嘘つきなんて言っている。ニャイおばさんに祈祷を頼んで家に呼んだら、たいがい一つか二つ物が無くなっていると。

けれどもマルは、ニャイおばさんの人の良さそうな顔を見ながら、何だか気の毒になってきた。ニャイおばさんの言ってる事はたぶん本当だろう。母ちゃんはニャイおばさんのことを悪く言ってたけど、きっとそれは兄ちゃん達がいなくなってあんまり悲しかったからだ。マルはニャイおばさんに言った。

「おらはニャイおばさんの事ちっとも恨んじゃいないよ」

「ありがとうよ、マル! あんたは本当にいい子だよ! ところであんたに頼みたいって事だけどね、あんたはあのカサン人の女の先生に随分可愛がってもらって、食べ物をもらったり先生の馬小屋に寝起きさせてもらってるそうじゃないか」

 マルはそれを聞いて、少しばかりドキッとした。

「可愛がってもらってないよ。怒られてばっかり」

「本当かい!? マルみたいないい子のどこを怒る所があるんだろうねえ」

(おらはちっともいい子なんかじゃないのに……)

 マルは思った。

「食べ物はくれるけれども……」

「そうかい? そんならやっぱり先生はあんたのことを気に入ってるんだ。それでねえ、先生に聞いてみてほしいんだけど、うちのカッシにもほんの少し、お恵みを分けてもらうわけにはいかないもんかねえ」

 マルは返事が出来ないでいた。ヒサリ先生がおらに食べ物や寝場所を恵んでくれるのはおらが身よりを失くした可哀想な子だからだ。でもカッシには母ちゃんがいる。でもカッシもやっぱりすごく貧しい。ニャイおばさんは昔から災難続きで、せっかくかせいだお金も人に盗られたり、家が焼けてしまったり子どもはカッシを除いてみんな死んでしまったし、中には殺された子もいるらしい。貧乏だから森の入口のこんな恐ろしい所で何か食べられる木の実でも探してるんだ。マルはだんだん、ニャイおばさんとカッシのためになんとかしてあげたいと思い始めた。でもヒサリ先生がカッシにも食べ物や寝場所を恵んでくれるかどうかは分からない。

(でも、おらがもらった食べ物をカッシに分けてあげることは出来る)

 こう思ったすぐ後で、マルは、

(ああ、おらはこれから死ぬんだ!)

という事に思い至った。マルは身に着けているボロの中からカサン語の本を取り出し、何も書いてないページにこう書いた。

「オモ先生、さようなら。私はもう先生の所には戻りません。代わりにカッシに食べ物をあげて下さい。カッシも昔の私と同じで、いつもお腹を空かしていますから」

 マルはニャイおばさんに本を渡しながら言った。

「これをヒサリ先生に見せたらたぶん先生は食べ物をくれると思う」

「ああ、なんていい子なんだろう、マル! 恩に着るよ。時々カッシと遊んでやっておくれ。この子はあんたがイボイボだからっていじめたりしないからね」

 マルは曖昧な返事をしたまま立ち尽くしていた。

「あたしゃこれから先生に頼みに行ってくるよ。マル、あんたも一緒に来てとりついでくれりゃありがたいんだが」

「おらは……ここでちょっと、したい事があるから」

「ああそうかいそうかい。おっかねえ妖怪が出るから気をつけるんだよ。これからもよろしく頼むよ」


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