第85話 祈祷師の子カッシ 9

 ある日、マルは必死で目を開いていたものの頭がカクンカクンと机に当たり始め、握りしめていた鉛筆が手からコロンと落ちた。ヒサリ先生の声が、まるで海の向こうから聞こえてくるようだった。その時だった。

「一体何をしているんですか!」

 先生の鋭い声がマルの体を刺した。

「マルーチャイ、立ちなさい!」

 マルはビクッと顔を起こし慌てて椅子に乗せていた足を床に下した。こんな時必ず大声を上げてヒサリ先生に抗議するナティは、この日は家の仕事でいなかった。メメもテルミも。しかし、他の生徒達の視線が一斉に自分に注がれるのが分かった。

「マルーチャイ! あなたがいくらカサン語が上手になってもカサン語で作文を書いても、カサンの精神を身に付けないことには意味が無いのです! それなのにあなたは一向にその気が無い! 落ち着いてまっすぐ椅子に座ることも私の顔を見ることも無い! それどころか椅子の上に足を乗せていじっていたり、上の空になったり居眠りしたりしています。あなたと同じ年の子なら誰でも出来る事があなたには出来ません。いいえ、出来ないのではなくやる気が無いのです!」

 マルは恥ずかしさの余り下を向いたまま呟いた。

「おらは卑しい物乞いだから、みんなと同じようには出来ない……」

「何て事を言うんです!」

 ヒサリ先生は、つかつかとマルの方に近付いたかと思うと、手を振り上げてマルの頬を打った。マルはよろけてそのまま尻から床に落ちた。教室にいた子供らは皆息を呑んだ

「あなたは何も分かってない! 一番大切な事が分かってない! こんな事ならカサン語の勉強も作文を書いてくるのもやめてしまいなさい!」

 マルの体はガクガクと震え始めた。これまで先生に捧げてきた真心が、一瞬で崩れ落ちたような気がした。

(もう、おしまいだ……)

 マルはゆっくりと立ち上がり、そのままふらふらと梯子段を降り、教室の外に出た。

先生は何も言わなかった。生徒達も黙りこくっていた。やがて、ラドゥの

「先生!」

という声が聞こえてきた。自分のために、先生に何か言ってくれているらしい。でも、もはやマルには関係の無い事だった。

「おらはヒサリ先生に嫌われたんだ……」

 目の下のイボには涙が溜まり、大きな粒になっていくつもいくつも転がり落ちた。


 川べりにたどり着くと、マルは自分の足を水に浸した。川の真ん中では、きっと今、龍蛇が散歩してるんだろう。泥を含んだ優しい波がいくつもいくつもやってきて、マルの足首を包んだ。

(ああ、母ちゃんみたい……)

でも母ちゃんは死んだ一番上の兄ちゃんと一緒に川を渡って向こうの世界に行ってしまったのだ。そう思うと、マルの目から再び涙がどうっと溢れ出した。

(母ちゃん、おらを連れてってよ。おら、ヒサリ先生について一生懸命勉強したんだよ。でももうダメだ。おら、ヒサリ先生に嫌われたんだ……)

 マルには、妖怪だけではなく時々死者の声が聞こえる事もあった。実際、スヴァリも毎晩うるさい位に話しかけてくる。しかし母ちゃんの声が聞こえた事は一度も無かった。理由はなんとなく分かっている。母ちゃんの声に惹かれてマルの魂が川向こうのあの世に行ってしまってはいけないから、母ちゃんはわざとマルに話しかけないようにしているのだ。

(母ちゃんがおらを呼んでくれないなら、おらの方から行ってやるんだ!)

 しかし、末っ子の自分が自ら命を絶つ事は許されない。末っ子はなるべく長生きして、自分の覚えた歌や物語をを後に生まれた人達に伝えなきゃいけないのだ。もしその掟を破って命を絶っても決して母ちゃんには会えないばかりか、灼熱の大地を永遠にさまよわなければならないのだから……。しかしこの時、マルの頭にある考えが浮かんだ。

(……そうだ、恐ろしい妖怪が住んでいる森へ行ったらどうだろう? そこでおらが人食い妖怪の食われて死んだら、自分から命を絶ったことにはならないよね!?)

 マルはそんな事を思いながらぼんやりと川面を見詰めていた。

聞いた話によると、マルの二番目の兄ちゃんは、とてもヤンチャで悪い子だったらしい。彼が4歳のある日、ひょいと姿が見えなくなったので、母ちゃんと父ちゃんと一番上の兄ちゃんが一晩中探したけれども見つからなかった。翌朝になってようやく川に浮かんでいるのが見つかった。右足一本だけ。悪い子は捕らえられてワニの精の供物に捧げられちゃうんだ。母ちゃんは二番目の兄ちゃんの右足を抱いて一晩中わんわん泣いた。

(おらも右足だけになったら、ヒサリ先生はおらを抱いて泣いてくれる……)

でも、これまでさんざん川で遊んできたけれど、ワニの精はマルを捕まえに来なかった。

(それならワニよりもっと恐ろしい妖怪がいる森へ行くんだ!)

マルはクルリと川に背を向けて歩き出した。心に固い決意を抱いたマルの脚は、イボだらけにもかかわらず、ずんずん進んだ。


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