第81話 祈祷師の子カッシ 5

 翌朝、ヒサリが朝食を終えて教室に向かおうと外に出ると、マルが既に馬小屋の外に出て、ヒサリの部屋の方をじっと見ているのが分かった。彼もまた、宿題とおみやげに対しヒサリがどんな感想を言うか、気が気でなかったのだろう。そしてヒサリの目には、心配そうに自分を見詰めるマルの様子がいつもと全く違って見えた。甘えん坊の無邪気な子どもでも、お行儀の悪い困った生徒でもない。自分がこれからどう扱っていいか分からない程の天才なのだ。

しかし、ヒサリはなるべく普段通りの表情を変えないようにしながら馬小屋に近付き、マルの前に立って言った。

「昨日の作文の間違いを直してきました。それからこれについていくつか聞きたいことがあります。教室に行きましょう」

 マルは少しばかり緊張した様子でヒサリの横をついて来た。ヒサリは教室でマルを椅子に座らせると、彼の目の前に朱を入れた作文を広げた。

「字や文法の間違いがかなりあります」

「あ……」

 マルはしばらく朱でたくさん直された自分の作文に見入っていたが、サッとヒサリを見上げて言った。

「みんな分かってたんです! でもついうっかり……」

「あなたはついうっかりが多過ぎです。それから字はもっと丁寧に書くこと。紙を無駄にしないように、まっすぐ書くようにしなさい」

 マルはおみやげとしてヒサリに渡したものが返されて明らかに落胆したように下を向いた。

「……それから、この女の子達のお話は、あなたが考えたものですか?」

 マルはほんの少し頭を傾けてから言った。

「川に住む妖怪が、私に話してくれたんです。恐い妖怪じゃなくて、優しい妖怪なんです」

「私には妖怪の話なんか聞こえたためしがありませんよ」

「みんなそう言うけど、私には聞こえます。木の妖怪や岩の妖怪が話してくれることもあるけど、一番話してくれるのは川の妖怪です。川辺で寝ていたらうるさくて眠れないこともあります」

 ヒサリは口をきつく結んだまま、マルが訥々と、しかし熱心に話すのを聞いていた。……そうだ。天才と呼ばれる人は、自分自身の閃きについて、「天から降ってきたよう」などと独特な言い回しをするものだ。マルは言葉を綴り物語を生み出す天才だ。それをマル自身の言葉で表現するればこういう事になるのだろう。

「……そうですか。分かりました。それでは今日はこれを持って帰って間違った所をおさらいしなさい」

 マルはうつむいたまま返された作文をそのままじっと見詰めていた。

「間違った所はきちんと直して、それを本当に私にくれるというのならください。内容はとてもよく書けていますよ」

 マルはこくん、と頷いた。

「それから、今後あなたはカサン語の授業に出る必要はありません。あのおじいさんの所へ行くなり、本を読むなり作文を書くなり好きに過ごしなさい。カサン語はあなた一人で勉強出来ます。けれども他の授業は必ず出るようにしなさい。カサンの歴史もカサン帝国の精神も算術も、きちんと勉強する必要があります」

 マルは顔を上げると再び

「はい」

 と頷いた。ヒサリは昨晩、ほとんど熱に浮かされたような頭で考えた。あの子の才能を伸ばす? 私にそんな事、出来るはずない! あの子は自分で伸びる力のある子だ。私に出来るのはそれを邪魔しないこと。あの子の翼をへし折らないようにするだけ。そうだ、そのためには存分に書かせるのだ! あの子が川や森や風から聞いた全てを、あの子の思うままに。また、それと同時に厳しさも必要だ。このままではマルは貧困と泥の中に埋もれて朽ちて行かなくてはならない。ずっと物乞いとして生きていかなくてはならない……いや、ラジオや雑誌がこの国にも普及し始めているから、もうじき物乞いで生計を立てることも出来なくなるだろう。ならば私がこの子を、何とか生きていけるように導いてやらなければ。出来れば上級学校に行かせて……でも、そんな事どうやって出来る? お金は? だいたいこんな醜い病気では学校にも入れない。けれどもこの子をしっかり教育して、立派なカサン帝国臣民にすれば何とか道が開けるのではないか……。マルはカサン語については黙っていても上達する。しかしその他については全くあきれるくらいお子様なのだ。しかしこのアンバランスさこそ、天から授けられた才能に対する代償なのかもしれない。だがこれからは、少し手綱を引き締めて教育しなければ。ヒサリは、作文を手に馬小屋に戻って行くマルに対して心の中で念じた。

(厳しくしてもどうか私を恨まないで! 全てはあなたのためを思ってすることなのだから)


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る