第80話 祈祷師の子カッシ 4

 午前中のカサン語の授業が終わった後も、午後のカサンの歴史の授業が始まってもマルは戻って来なかった。

(午後の授業まで休んでいいとは言ってない。昼まで戻るように言ったのに。あの子は私の授業よりもあのおじいさんの話を聞く方がいいんだわ……)

 ヒサリはそう思うと、微かな落胆を感じた。授業を終え、ヒサリが自分の部屋に戻る時間になっても、マルは戻って来なかった。

ヒサリは自室の机で、子供達の教育の成果や洪水以降の人々の生活の変化などを報告書にまとめる作業をした。

日が暮れると、ダヤンティがヒサリの部屋に食事を運んできた。

「マルはもう帰ってきましたか?」

「ええ、今帰ってきました。なんだか嬉しそうな様子で。今日は学校を休んで遊んでたんですか?」

「あの子には学校の授業とは別の課題を与えました」

 ヒサリはそう言いつつ、溜息をついた。すぐに首を振って自分に言い聞かせた。

(あの子がカサンの歴史やカサン帝国精神を学ぶよりもこの国に昔から伝わる歌物語を聞きたいと思うのは当然のことだわ。否定する権利など私には無い)

 ヒサリはそう思いつつも、報告書を書く手は何度か止まった。生徒にこれ程まで自由を許している事はカサン軍本部や教育庁には秘密だ。決して許される事ではないのだから。

 報告書を書き終え、机についたまままどろみかけたヒサリは、ホトホトと風が扉を叩くような音を聞いた。

(風が出て来たのかしら……ああ、もうこんな遅い時間……そろそろ寝ないと……)

 しかし扉を叩く音が、今度ははっきり意思を持って聞こえてきた。ヒサリは頭を上げて扉に駆け寄り、扉の向こうに向けて

「誰ですか!」

 と声を張った。

「オモ先生、宿題を持って来ました!」

 ヒサリは驚いて扉を開けた。

「まあ、何も今日宿題を出せとは言ってませんよ! こんなに遅いのに!」

「宿題だけじゃありません! 今日、川の妖怪がすごく面白い話をしてくれたんです。先生におみやげです! どうしても、今日、ヒサリ先生に渡したくて!」

 ヒサリはマルに久しぶりに「オモ先生」ではなく「ヒサリ先生」と呼ばれてハッとした。しかしマルは興奮の余りその事にも気付いていないようだった。マルがヒサリに、まるで一本の花のように手渡した物は花……ではなかった。花のように丸められた紙であった。

「分かりました。これは後で見ておきますからね。あなたは今すぐ部屋に戻って寝なさい」

 マルが足音を立てて馬小屋に戻り、明かりが消えたのを確認してから、ヒサリは自分の机に戻り、丸められた紙を開いた。紙は貴重品だから余白を作らないようまっすぐ書きなさい、と言い聞かせているが、彼はそれが出来ない。イボだらけの不自由な手で書いた字は大きさもバラバラで曲がっている。

(全く……これを一体どうやって矯正したものか……)

 しかし、「北の物乞いのおじいさんが語ったお話」と題が付けられた文章の、汚い字を一つ一つ拾い上げて読むうちに、ヒサリの息は止まっていた。言葉の一つ一つが立ち上がり、ヒサリの胸にくっきりと刻まれていくのだ。それは、アジェンナの首都タガタイの王宮に住む一人の王子の物語だった。それは、マルが自分の知る限りのやさしいカサン語を駆使してヒサリのために語った一編の物語であった。マルは物語もカサン語も完全に自分のものにして、自分の内から沸き出す言葉でヒサリに語っているのだ。ヒサリの眠気は完全に飛び去った。ヒサリの瞼の裏に、陰謀によって王宮を追われた幼い王子ヤーシーンの姿がありありと映し出された。ヒサリは読み終えるなり、思わずつぶやいていた。

「何てことなの! この子には脱帽だわ!」

 もう一つの方は、「川の妖怪から聞いたヒサリ先生へのおみやげ」だ。それは、さらにヒサリを驚嘆させた。川べりで石を積んだり投げたりして遊ぶ少女たちの姿は、まるで美しい絵画のようであった。ヒサリは驚きの余り、世界の時が止まったように感じた。

(マルは、ダビやトンニやラドゥのような秀才とは違う。何かとてつもない物を天から授かった子なんだわ!)

 そう思った瞬間、ヒサリの心臓は早鐘を打ち、体は小刻みに震え始めた。

(私はこんな子に会ったことが無い! それこそ、本の中でしか会ったことが無い!)

 彼の能力があまりにもアンバランスで他の優秀な生徒達と違う事にヒサリはずっと悩んできた。しかしそういうことだったのか!

興奮が去った後、ヒサリは机に向かったまましばらく呆然としていた。なんという事! 宝石が私がの手に転がり込んできたのだ。しかもその宝石は泥まみれだ。宝石を宝石らしく美しく輝かせるためにはどうしたらいいのか。……ああ、そんな事分かるはずがないじゃないか! 私はただの未熟な若い教師に過ぎないのだから……。ヒサリは寝台に横になったが、寝付くことが出来なかった。窓の外の満月がいつまでも自分の胸の中をあかあかと照らしているようだった。


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