第77話 祈祷師の子カッシ 1

 ヒサリは授業を終えると、帰り支度を始めた子ども達に声をかけた。

「皆さん! 今日は新しいカサン語の本が届いています。借りて帰りたい人は自由に持って帰ってよろしい!」

 ヒサリはそう言って、教室の片隅に置いておいた箱を教室の真ん中まで運び、開いた。子供達から歓声が上がった。子供達はみんなきれいな絵の付いた本が大好きだった。まず真っ先に本を見に来るのがダビ、そしてトンニだ。ダビは最近、カサンの偉人の事を書いた本を好んで借りて行く。一方トンニは動物や植物など自然科学に関する本が好きだ。それからラドゥ。彼はまだカサン語を学び始めて日が浅いが、一番年嵩なせいか、分からないなりに文章全体の言わんとしている事を類推する能力に長けていた。それからきれいな絵を見るのが好きなテルミとテルミと仲の良いメメ。ミヌーリーは来たばかりだというのに、さっそく皆に混ざって絵本を手にしてキャアキャアはしゃいでいる。それからどこか飄々としたアディ。勉強熱心ではないニジャイもおそらく読みはしないのだろうが、皆と同じように一冊借りていく。ナティは、自分はこんなものに興味は無い、という風に面倒臭そうに本を手に取ってパラパラとめくる。面白いことに、それでも必ず一冊か二冊借りて行くのだ。そしていつも最後がマルだった。皆が選んでしまった後、余ったものの中から何冊かを持って帰る。しかしそれでも大丈夫だ。いつも最後に残るのは、一番カサン語が出来るマルにしか読めない難しい本ばかりだから。ヒサリはその事を見越し、いつもマルだけのための本を何冊か取り寄せておいた、それは特に彼に読ませたいと思って選んだ名作ばかりだった。この日も、マルが嬉しそうに本を手にした時、ヒサリはそっと思った。

(これは驚くべき事だわ! この本は子ども向けだけれど、十二、三歳の子が読む本だ。それをカサン語を勉強し始めて二年にも満たないこの子が読むなんて!)

「マルはもうそんな難しい本が読めるのか」

 ダビが驚いたように言った。ダビは最初、イボだらけで汚らしい身なりのマルを避けていたが、彼のカサン語力が飛躍的に伸びているのを知るや、一転して優しい言葉をかけるようになっていた。

シャールーンだけは本に興味を示すことなく、じっと席についたまま、下を向いていた。マルは本を抱えてシャールーンの傍に寄ると、一冊の絵本を彼女の机の上に置いた。

「これ、楽しそうだよ。読まない?」

(マルはシャールーンのことが好きなんだわ……)

 マルは恥ずかしいのか、すぐにシャールーンから離れ自分の席に戻ったが、ヒサリにはその事がよく分かった。他の少年達はみな愛嬌たっぷりで可愛らしいミヌーリーに夢中だ。それなのにマルは口をきかない無表情なシャールーンが好きらしい。

(けれども、シャールーンはマルに話しかけられるたくないと思ってるはず。マルが傷付かなければいいけれど)

 シャールーンは奴隷階級の少女だ。奴隷も妖人も共に、ここアジェンナでは「人外の民」と言われ、社会の最底辺に置かれた世襲の身分だ。そして奴隷と妖人ではどちらが身分が上か下かというとになると、なかなか判断が難しい。奴隷は妖人のように「触れただけで体が穢れる」ような不浄の存在とは見なされていない。妖人は昔からの慣習として、とても人間とは思えないようなひどい名前を付けられている。例えばマルの正式名「マルーチャイ」は、アマン語を知らない者にはかわいらしく聞こえるかもしれないが「糞にまみれたハエ」の意味だ。奴隷身分の者にはそんな慣習は無く、「シャールーン」は「月光」、「ミヌーリー」は小さなピンク色のかわいらしい花の名前だ。また奴隷は金持ちの「所有物」であるため、妖人の貧しい子達のように不潔な身なりをしている事も無いが、自由は無く、全て「所有者」の意のままに動かなくてはならない。しかも、その「所有者」とは、これまでは貴族や士族など身分の高い人であった。しかし近頃では財力を蓄えた妖人に所有されていることもままある。実際、二人の少女を所有しているのは「ロロおじさん」と人から呼ばれている妖人身分の興行主らしい。この事は彼女達にとって耐えがたい屈辱に違いなかった。しかしそんな事を考慮しても、シャールーンの沈黙の理由がヒサリには分からなかった。

(けれども、読み書きを覚え、言葉で表現する事を知れば、たとえ口はきけなくても沈黙から解き放たれる。その事はこの子を奴隷の状態から解放する事にもつながるんだわ)

 ヒサリは思った。初めて学校に女の子が来たという事も、ヒサリに新たに意欲を燃え立たせた。

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