第75話 踊り子シャールーンとミヌー 9
一時限目の授業は、マルの苦手な「カサン帝国の精神」だった。
ダビもトンニもラドゥも、この時間はものすごく熱心だ。前のめりになってオモ先生の話に耳を傾け、質問している。ナティもオモ先生の言う事に対していつも文句を付けているけれど、そんなナティの様子はどこか生き生きしていた。
一方マルは、オモ先生の言う事がよく分からなかった。いや、言葉の意味は分かる。オモ先生は「カサン帝国の精神」の授業はほとんどアマン語でするから。でも時々出て来るカサン語の難しい言葉、「搾取」だの「支配」だの「権力」だの、そういった言葉は今一つ、マルには分からなかった。カサン語の授業で習う言葉はあれだけよく分かるのに! カサン語の物語や歌は、あれだけたやすく、時には熱く、時には冷たくマルの心の奥底まで染みてくるというのに……。
「あなた方の国アジェンナはもともとは豊かな国でした。しかし今では停滞と貧困にあえいでいます。それはあなた方が怠けているからではありません。狡猾な白ねずみであるピッポニア人が数百年に渡りあなた方の国の富を食い荒らし、搾取したのです」
「俺達の先祖はピッポニア人と闘わなかったんですか!?」
ダビが尋ねた。
「戦いました。勇敢に戦いましたとも! けれどもピッポニア人は近代的な武器を持っていました」
「どうせアジェンナの人間にもピッポニア側につく奴がいたんだろうな。男はみんな『近代的な武器』ってのが好きだからな」
ナティが言った。
「確かにそうです」
オモ先生は言った。
「かつてアジェンナでは、北部のアジュ人とあなた方の祖先、南部のアマン人とが争っていました。アジュ人は白ねずみ達の力を借りる事で戦いに勝ち、南部のアマン人達を征服下に置きました」
「つまり俺達のアマン人の祖が先アジュ人に負けたのは、ピッポニア人の力を借りるような卑怯な真似をしなかったからだな!」
ダビが言った。
「それに乗じてピッポニア人は完全にアジュ王族に入り込み、権力を掌握したのです。しかも悪いことに、北部アジュ人は南部アマン人を被支配民族として見下しました。その一方でアマン人の支配階級はそのはけ口として、上層階級と下層階級を区別し一部の者を穢れた者とする身分制度を作り上げました。あなた方が差別されるのはそのためです。しかもこの国の南部と北部の対立や身分制度は、ピッポニア人にとって都合の良いものでした。彼らは差別と分断を強化するためあらゆる手を尽くし、この国の民が団結し彼らに歯向かうことが出来ないようにしたのです!」
オモ先生がこう言うと、ダビやナティやラドゥは興奮したように「うー」とうめいた。
しかしマルにはオモ先生の言葉の意味がどうも分からなかった。ピッポニア人がおら達から一体何を奪ったんだろう? 毎日違った歌を聞かせてくれる川も、きれいな夕焼けもみんなここにある。おらが奪われたのは母ちゃんだけ。でもそれは洪水のせいだし、洪水は大地の女神の怒りによって引き起こされるんだ。もしかしたらピッポニア人がおらの母ちゃんを捨てたから大地の女神が怒ったの? でもそれなら罰を受けるのはピッポニア人のはずで、母ちゃんやおらじゃないはず……。考えれば考える程訳が分からなくなって、もぞもぞと体を動かしていると、さっそくオモ先生の声が飛んで来た。
「マル! そんな風に体を揺らすんじゃありません! あなたはどうしていつも落ち着きがないのです!? 最近やっと椅子に座っていられるようになったと思ったら! 椅子は遊ぶ所ではありませんよ!」
マルが下を向いたとたん、背中に
「ヒヒヒヒ……」
という声を聞いた。振り向かなくたって分かってる。それはニジャイだ。マルの胸の中で黒い炎がぼうっと灯るのを感じた。ニジャイが憎い、と思った。人に対してこんな感情を持つのは初めてだった。マルは自分の胸に何か恐ろしい妖怪が住み着いているような気がしてギョッとした。
休憩時間になり、オモ先生が教室から去ると、マルの前の席のテルミがさっそく振り返った。一生懸命話を聞きつつオモ先生をじっと見詰めていたらしい目は真っ赤だった。
「おら、オモ先生の言う事がちんぷんかんぷんだよ……おら、頭が悪いのかな……」
「おらもよく分かんない」
「本当!? マルも分かんないの? それなら安心だ!」
テルミはほっとしたのか急ににこにこ顔になった。
「あーこれは人を騙すとか騙されるとか、強い物にくっついて弱い者をいじめるとか、そういう汚ねえ話さ! マルやテルミみたいなお人好しには分かんねえんだよ!」
いつの間にかナティがマルとテルミの間に立っていた。
「弱い者いじめなら分かるよ。川向うの子がおら達の悪口を言ったり誰かがマルに『バケモノ!』って言って石を投げたりするようなことでしょ」
「つまり、そういう事をピッポニア人がアジェンナにしてるって話さ。でもさ、オモ先生はああいうけど、カサン人だって俺達といじめねえとは限らねえぜ」
「そんなことないよ! オモ先生はちょっと怖いけど、おら達の事を思ってくれてるし……ねえ、マル!」
マルは頷いた。
「だけど知ってるか? 川向うの学校じゃ、魔女みてえなカサン人の女の先生がいて、一言でもアマン語喋ったら鞭で打つって話だぜ」
「本当!?」
マルとテルミは二人揃ってそう言って、顔を見合わせた。
「いいか、力持った人間ってのはな、絶対に誰か弱い奴をいじめたくなるもんなんだ。それは言ってみりゃ人の本性だ。力ってのは、マルの持ってるような、妖怪の話が聞ける力なんかと違うぜ。人より金持ってるとか武器持ってるとかそういう事さ。そういう奴には気を付けなきゃなんねえ」
マルは何も言えないまま、ただただナティの顔を見詰めていた。そんな風に語るナティは、すごく世の中を知っていて大人びているように見えた。
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