第62話 生の子死の子 6

 橋を渡り切ってしばらく行ったその時だった。

「あ、おめえはあの時の!」

 マルは、声を聞き、顔を前に向けた。道の先には、一人のたくましい少年が立っている。彼を見た瞬間、マルはアッと息を呑んだ。そこには、あの大雨の日、家の中に入れてくれた親切な家族の中の一人だった。その瞬間、マルはあの日、母ちゃんに会いたいばっかりに親切な家族に何も言わずに飛び出してしまった事を思い出し、恥ずかしくなっておずおずと下を向いた。

「良かった! おめえ、生きてたんだな!」

 マルが再びそっと顔を上げると、少年の目は自分に優しく向けられていた。

「お袋と妹が喜ぶだろうな。トゥラ、『ひこうき』に乗って一体どこに行ってたんだい?」

 マルは胸がいっぱいになって何も言えないまま、目をパチパチさせていた。メメとテルミはあっけにとられてそこに立ち尽くしていた。平民様が妖人にこんな風に親しげに話しかけて来るなんて、あり得ない事だった。メメが一礼し、再び荷車を引き始めると、少年は、

「どこまで行く? 手伝おう」

 と言って荷車の後ろに立ち、がっしりした腕で押し始めた。すると荷車はいきなりカラカラと軽快な音を立てて進み始めた。さっきまで酔っ払いのように調子はずれな音を立てていた荷車が、急にリズミカルに歌い出した。マルはびっくりしてしばらくあんぐり口を開けていたが、やがておかしくなってフフフフ……と笑った。少年は荷車を押しながら、マルに尋ねた。

「本当は君の名前はトゥラじゃないんだろう? 君の本当の名前はなんて言うんだ?」

「マル。マルーチャイ・アヌー・ジャンジャルバヌイ」

「俺はラドゥカーン・ヌン・アバンタン。ラドゥって呼んでくれ」

「うん」

「おめえの声はよく響く。おめえの声を聞いて、もしやと思って来たんだ。何か不思議な言葉喋ってたな。ありゃ何かの呪文かい?」

「カサンの言葉」

「何だって!? おめえ、カサンの言葉が分かるのか?」

「母ちゃんが死んじゃったから、代わりにカサン人の先生からカサンの言葉を教えてもらってる」

「そうか……おめえの母さんはやっぱり死んじまったのか。それは残念だ……」

 ラドゥはそのまま口を閉じた。マルは再び、カサンの言葉を繰り返し始めた。それから襤褸の中に大切にしまってあるカサン語の本を取り出して開いた。ラドゥは荷車を押しながらマルの方をチラリと見て言った。

「おめえ、学校でカサン語を習ってるのか?」

「うん」

「学校はどこだ?」

「あそこに見える丘に木があるでしょ。あの下にあるよ」

 ラドゥの声は、まるでマルの肩を掴んでいるかのように真剣だった。

「他に誰か行ってるのか?」

「おらの友達も行ってるし、メメやテルミにも一緒に行こうって言ってるとこなの」

「金は? 金はどうしてる?」

「お金……?」

 マルは首を傾げた。「お金」というのは母ちゃんが歌物語をして時々もらっていた。でもラドゥはなんで「お金」なんてこと言うんだろう……?

 その時だった。メメが

「あっ、あそこだ!」

 と声を上げた。河原に三体の死体が打ち上げられているのが分かった。親子のようで、一体は大きく、あとの二体は小さかった。どれも水をたくさん飲んだらしく、体が膨れ上がっている。そして恐ろしい妖怪がうじゃうじゃとその体を煙のように取り囲んでいた。マルは、その死体がよく見える場所まで来たとたん、「あっ」と声を上げた。

「おら、この人達のこと知ってる!」

 三人はマルと同じように川辺に住んでいる物乞いだった。マルの家族とは逆に、父親一人と娘二人の親子だった。三人共弦楽器を抱えて素晴らしい音色をかき鳴らしていた。そして娘たちはとてもきれいだったのに、今は腐りかけの死体になって邪悪な妖怪にたかられている。マルが小さい方の女の子の顔をそっと覗き込んだその時だった。

「ああ、あんたね!」

 突如、死体から声がした。マルはビクン、と体を震わせた。マルには時々死体の声が聞こえることがある。たいがいこの世に思い残すことがあるようで、いろいろな事をマルに言ってくるのだけれど、どうなぐさめていいのか分からずマルはいつも困ってしまうのだった。

「あんたが来てくれるなんて! あたし、あんたの歌を聞いてあんたの事が好きになったの。大きくなったらあんたのお嫁さんになるって決めてたのよ!」

「でも、おら、イボだらけなのに」

「あら、でもあんたは大人になったらトゥラみたいにイボイボが取れて美男子になるんでしょ!」

「ならないよ。あれはお話の中だけなんだ」

「ねえーえ、聞いてよ! あたしね、すごく頑張って、アジェンナ国で一番うまく弾けるようになろうって思ってたのよ。それなのにこんなに早く人生終わっちゃうなんて!」

「おら、悲しいよ。君はきれいで楽器が上手だったもんね」

「スヴァリっていうの」

「え? 何が?」

「楽器の名前よ。そしてあたしの名前もスヴァリ。父ちゃんが楽器の名前をあたしに付けたの。楽器がどこかにあるはずよ。みつけたらあんたがもらってちょうだい。そして大事にしてね!」

「でも、おらこんな手じゃ楽器は弾けないし……」

 この時、メメがマルの肩に手を当ててグイと引き、ぶっきら棒に言った。

「あんまり寄るな! 死体についてる妖怪にかみつかれるぞ!」

 それからメメは腰巻の下からごわごわした手袋を取り出してはめ、父親の死体を触り始めた。

「何をしてる?」

 ラドゥが尋ねたが、メメは仕事に没頭して声が耳に入らないのか返事をしなかったので、マルが代わりに答えた。

「葬儀屋は身よりの無い死人の持ち物をみんなもらうことが出来るの。そういう決まりなの」

 この時マルは思った。スヴァリの弾いてた楽器はおらがもらうって言わなきゃ。だっておらにもらってって頼まれたんだもの……。 メメのてきぱきとした手の動きを見ているうちに、もうこの親子が生きている所を見られないんだと悲しみが込み上げてきて、シュンと鼻をすすった。するとメメが手を動かしながら言った。

「なんで泣く? 悲しい事なんかない。この親子は川向うの涼しくておいしいものがたくさんあって誰からも妖人と言われてばかにされない所に行ったんだ」

その声は、少し怒っているようでもあった。

(そうはいってもおらは寂しいよ。死んじゃった人にはこの世で会えないんだもの)

 マルは心の中で思った。自分も出来れば母ちゃんの所へ行きたい。けれども末っ子の自分は、「長生きすること」が務めなのだ。自分で命を絶ったりしたら、川向うの母ちゃんに会えないばかりか罰として永遠に灼熱の砂漠を彷徨うことになってしまうらしい。

「手伝おうか?」

 テルミはメメに言った。テルミは女の子のように見えるけど度胸がある。それもそのはず、テルミはお産婆の修行をしている。お産婆はお産の時に母親や赤ん坊に取りつく妖怪と闘わなきゃいけないのだ。

「よせよ。危ないから。死体の妖怪はお産の妖怪とは違う」

 メメはそう言って死体に煙のようにむらがる妖怪を手で追い払い、死体の向きを変え始めた。

「どうしてそんな事するんだ?」

 ラドゥが興味津々な様子で尋ねた。

「死体の頭を西に向けてる。そうしたら迷わずに早くあの世に行けるから」

 メメは、三人の頭を西に向けた後、再びこう言った。

「だけど妖怪や妖人に殺された人にはしない。無駄だから。そういう人はこの世にとどまって妖怪に生まれ変わらなきゃならない」

「へえ、そうなの!?」

 テルミが声を上げた。

「ねえ、昔、産まれたばかりの自分の子どもをバルバダって奴がいたじゃない。殺された子ども達は妖怪になったの? 何にも悪い事してないのに」

「そうだ。妖人に殺された赤ん坊はそうなる」

「かわいそうだなあ」

 その時、じっと黙った聞いていたラドゥがいきなり言った。

「おらはそんな事信じねえ」

 メメがこの時初めて顔を上げ、ラドゥの顔をまともに見返した。

「妖人に殺された人が妖怪になるなんて迷信だ。おらはそんな事信じねえ。絶対に信じねえ」

 メメは絶え間無く動かしていた手を止め、黙ってラドゥを見返した。

「邪魔して悪い。続けて」

 メメは腰に付けた袋から数珠を取り出し、立ち上がったり伏せたりしながら大声で「死者送りの歌」を唱え始めた。その様子は、まるで雲の隙間から降りて来た何かがメメの体に取りついたみたいだった。メメは少年らしい声を枯らしながら精一杯叫んでいた。まるで天に向かって怒りをぶつけるかのように。三人は黙ってその様子を見詰めていた。それが終わると、メメは荷車に乗せた薪を地面に並べ始めた。ラドゥはサッと荷車に近付き、薪を並べるのを手伝い始めた。マルとテルミもそれに続いた。四人がかりであっという間に薪は並べ終わった。

「それでどうする? 死んだ人をこの上に乗せるのか?」

「それは俺がやる。死体に妖怪がむらがってるから、危険だ」

「そうか。それなら手を出さねえ方がいいな。おめえ達はすごいな。おらにはその死体についてる妖怪ってのがさっぱり見えねえ」

「別にすごくなんかない。俺もお産の妖怪は見えないし、マルみたいに妖怪の話が分かることもないし」

 無口なメメがそれだけ話せば十分だった。相変わらずぶっきら棒だったが、彼がいくらかラドゥに対して心を開いた証しだった。

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