第59話 生の子死の子 3

 マルは先生から渡された本をしっかりと抱え直し、ナティの少し後をついて歩いた。足はいつもに増して進まず、足首から下が土にからめ取られたように重かった。

本当はあの馬小屋の片隅で、おとなしく勉強すべきなのかもしれない。フカフカの柔らかい藁の上で寝られるし、おいしい食事も出してもらえる。だけど何日かたつうちに、マルはだんだん苦しくなってきた。母ちゃんなら、歌の稽古が終われば必ずおらを抱いてくれた。それなのにあの人はちっとも抱きに来てくれない。マルは、その日に習ったカサン語の本の内容を何度も何度も大きな声で、ヒサリのいる小屋に聞こえるように繰り返した。それなのに梨のつぶてだ。マルは寂しさの余り、藁の中で身もだえし、転げ回った。柔らかい藁が、まるで針のように自分を刺すように感じられた。いたたまれず、マルはそばにいる馬に尋ねた。

「あの人はおらがイボだらけだから嫌いなの?」

 しかし、馬も口止めされているのか、以前のようにマルに話しかけてくれず、鼻息の音を立てるばかりだった。窓から差し込む月の光がひんやり体に降り注ぐ時、抱いてくれる人がいなくなった寂しさが余計に身に染みた。耐えられなくなったマルはついに馬小屋から飛び出した。せめて川のお喋りで気を紛らわしたい、川辺の木々や草の中に住む精霊の声が聞きたい。そうしなければ寂しくて寂しくてとても眠ることなんか出来ない……! そうしてマルは夜ごとかつて暮らしていた川辺に戻るようになった。

 そして今、マルは本をギュッと胸に抱いてせっせと歩きながらこんな事を思った。あの人は自分を「ヒサリ」じゃなくて「オモ先生」と呼べって言う。どうしてだろう? あの時は自分の名前を「ヒサリ」って教えてくれたのに! 「オモ」っていうのは自分の名前の「ジャンジャルバヌイ」と同じ姓だ。姓で呼ぶなんて、何だか壁の向こう側から話しかけてるみたい。それから「先生」を付けるのも好きじゃない。「先生」を付けたとたんにあの人がうんとうんと高い所に上ってしまったみたいで、見上げているうちに首が痛くなっちゃうんだ……。どうして「ヒサリ」と呼んじゃいけないの? そしてマルには、あの人がかつて「私はヒサリ」と言って抱いてくれたことが今では何だか夢の中の出来事だったような気するのだった。ダビは言う。「カサン人はとても偉い人達」なんだと。川向うの平民様や地主様よりも偉いのだと。偉いカサン人のオモ先生がおらを抱いてくれただなんて。やっぱりおらは夢を見てたんだろうな……。でもどんなにつらくて寂しくても、おらはオモ先生からいろいろ教わらなきゃいけないんだ。ダビは、「カサン人は強くて頭も良いから、カサン語を勉強したら自分も強くなれる。だから勉強するんだ」って言ってた。おらはカサン語を勉強してもちっとも強くなれる気がしない。強くならなくてもいい。おらはただあの人に優しく抱いてもらいたいだけ……。

「マル」

 前を行くナティが言った。

「お前、何のためにそんなに必死でカサン語勉強してんだ?」

「何のため……」

 マルは口ごもった。

「それは……カサンの歌や物語を覚えて、カサン人の所に物乞いに行く」

「へえっ! お前そんなちっちゃい事考えてんのか!?」

 ナティはそう言ってマルの頭を軽く小突いた。

「ダビが言ってたろ。カサン人ってのは強くて偉いんだ。本当に偉いかどうかは知らねえが、偉そうにしてるんだ。もしかしたらアジェンナの王様より強いかもしんねえ」

「王様より!?」

「だからな、その強いカサン人の言葉が分かれば考えてることも分かる。そしたら、奴らがもし調子に乗ったら、やっつける事も出来る」

「や……やっつける!?」

「そうだよ! どんなおっかねえ妖怪でも、その妖怪の考えてる事が分かれば退治出来る。それと同じだ。カサンの奴らは一体何を企んでるか分からんからな」

「オモ先生をやっつけるっていうの!? そんなのダメだよ!」

「今すぐどうこうって事じゃねえ。何かあったら、だよ。それにカサン人はあの女だけじゃねえからな」

 マルの体は驚きと興奮の余りブルブル震えたが、ナティに対し何も言い返す事が出来なかった。

「俺はこれから兄ちゃんとひと仕事してくるよ。マルは?」

「おらは、メメんとこに行く」

「そっか。それじゃまた明日な」

 ナティはそう言って踵を返した。しかしマルの受けた衝撃はしばらく消え去らなかった。マルはただその場に立ち尽くしたまま、遠ざかってゆくナティの背中を見詰めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る