第58話 生の子死の子 2
ヒサリは授業を終え、自分の部屋に戻り、報告書を書こうと机の前に座る度に、頭を抱えたまましばらく何も出来ないでいることが増えた。マルは最初の数日間こそヒサリの馬小屋で寝泊りしていたが、やがて授業が終わるとナティと一緒に行ってしまうようになった。
(私が優しいお母さん代わりじゃないと分かって、私のことが嫌になったのかしら)
そう思うと、ヒサリは悲しかった。
ある日、ヒサリはナティの後を追って行きかけたマルを引き止めて言った。
「あなたはどうしてここに泊まらなくなったのですか? 夜はどこで寝泊りしているのですか?」
マルは困ったように下を向いた。
「何度も言っているでしょう。人に何か問われたらきちんと相手の顔を見て返事をしなさい」
「川のそばとか、友達の家とか……」
マルはカサン語で小さく答えた。小声だが、まるでカサン人の子どものように完璧なカサン語。ただしその態度は、何とももどかしい。
「曖昧な答え方をするんじゃありません。はっきり返事をしなさい」
「川のそばとか、友達の家で寝てます」
「友達というのはナティのことですか?」
「いいえ」
「あなたがそこで過ごす方がいいというんならそうしなさい」
ヒサリはマルに竹の籠に入った弁当箱と本を渡しながら言った。
「あなたがどこで寝泊りしようと勝手だけども、しっかり食事を取って勉強をすること。あなたは健康で賢い子どもになって国にご奉仕する義務があります」
マルは小さく頷いた。イボだらけの足でヨタヨタ歩きながら去って行くマルを見ながら、ヒサリは胸がかきむしられるような気分だった。
(分からない。あの子の事が何も……)
去って行くマルの後ろ姿を悄然と見送るヒサリの背中に、バダルカタイ先生の声が注がれた。
「オモ先生、あの子の事が心配なのは分かります。しかしあの子を小さな部屋に縛り付けておくことは出来ません。あの子は川の音や土の匂いと共に生きてきた子です。あの子を好きにさせておやりなさい。あの子はアマン語の読み書きもよく出来る。何の問題もありません。それからナティ、あの子もです」
「ナティがですか?」
「そうです。あの子は賢い子です。カサン語は分からないふりをしているかもしれませんがアマン語の成績は優秀です。だから私はあの二人が好きです。それに比べてダビとトンニはアマン語の勉強には熱心ではありません。カサン語さえ身に付けたら良いと思っているのでしょう」
ヒサリは黙ったまま。バダルカタイ先生の言葉に含まれる微かな棘を感じていた。ヒサリはバダルカタイ先生の言葉を聞くまでも無く、ナティが非常に頭の切れる子である事に気付いていた。カサン語の授業の間、ヒサリがナティに直接質問しても「知らねえよ」とそっぽを向くくせに、ダビが間違えると「ヘヘへ、バカだな! こないだやったばっかりじゃないか! おめえの洗濯板頭から聞いた事みな滑り落ちるみてえだな!」と茶化す。ナティはそうやってダビをぎゃふんと言わせる事に命をかけているようだった。
(ナティは昔の私に似てる。生意気な所が特に)
ヒサリ自身も女学生の頃はいばりくさった教師や軍人のことが大嫌いだった。街中で軍人にすれ違うと道を譲り、公共交通機関の中でも席を譲る事が当然とされていたが、ヒサリはそうしなかった。列車の中で生理痛で座席にうずくまっている時席を譲れと軍人がすごんで来た時、ヒサリはきっぱりと拒否し、軍人のくせに乗り物の中ですぐに座り込むような体たらくで本当に国が守れるのかと言い放った事がある。こんな自分だ。偉い人達には随分睨まれてきた。だからナティのような子を見ても別に驚きはしない。
(面白い子じゃないか。私はあの子に決して甘い顔をするつもりはない。けれども決して切り捨てるようなことはするまい)
ヒサリはそう心に決めた。
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