第57話 生の子死の子 1

 ヒサリは、マルを椅子に座らせるのにこんなに苦労することになるとは想像していなかった。確かに、この国にはまだ椅子は普及していない。ほとんどの下層階級の者は、床に直に座る生活をしている。ここで初めて椅子に座る事を覚えたトンニは、最初ひどく居心地の悪い様子を見せていたがじきに慣れた。しかしマルは違った。椅子に座らせても、数分後には足を椅子の上に上げて、泥だらけの指をいじり始めるのだ。それだけではなく、しばらくすると落ち着き無く体を左右に揺らし出す。ある日、ついに「ドシン!」と音を立てて椅子から落っこちた。教室の生徒達は皆あっけに取られてマルの方を見た。マルは床に転がったまま手足を空中でバタバタさせていた。

(あきれた! 何てことかしら! 椅子から落っこちるだなんて!)

 ヒサリの目には、マルがそのまま助け起こされるのを待っているように見えた。甘えん坊で末っ子のマルは、あり余るほどの愛情を受けて育ったのだろう。マルが倒れたら、いつもだれかが助け起こしてくれたのだろう。アマン人の子育ては厳しさよりも甘さが目立つ。この甘さこそがこの国の民を隷属的な地位に落としてきたのだ。これからはこの子に厳しさを通じて自立という事を教えなければならない。

「さあ、起きて椅子に座りなさい。体を揺すったりするから落ちるんですよ。体を揺らさず、まっすぐ前を見て座りなさい」

 するとナティがすかさず言った。

「マル、この女はお前の母ちゃんみたいに優しく抱いて起こしちゃくれねえぜ。いっそこのままそこで寝てたらどうだ?」

 するとマルは渋々体を起こし、椅子に座り直すのだった。マル自身が椅子から落ちるだけではなかった。机に置いた紙までやたらと床に落とす。子供達に支給するノートが無いため、ヒサリは様々な包み紙や新聞紙を渡し、指先に果実を絞った物を付けさせ文字を書く練習をさせていたが、マルの机の上の紙は瞬く間に床に散乱した。そのためヒサリは何度もマルにそれを拾うように注意しなければならなかった。椅子の上に座る姿勢も悪く、どうしても足を上に上げなければすまないようだったし、ちっともじっとしていられないのだ。これが彼の皮膚病の影響によるものか、それとも彼の持って生まれた性質なのか判断がつきかねた。指で書く文字もぐちゃぐちゃだった。イボだらけの指先がうまく使えないのは分かる。しかし文章をまっすぐ書けず紙に斜めに書くというのはどういう事だろう? 一方、カサン語の習得は驚く程早かった。何なのだろうこの子は! 失望、歓喜、そして失望……。その繰り返しだった。ヒサリは混乱した。自分は単に言葉をこの子達に教えに来たのではない。言葉と共に、勤勉さや自立心、忠誠心など文明人にふさわしい態度を教えに来たのだ。実際、ダビやトンニはそれに成功しつつある。しかしこの子ときたら……! 気まぐれな子どもはカサン語だけどんどん覚えていく。体の小ささや態度の幼さに比べ、あまりに不釣り合いな難しい洗練された言葉をあっという間に自分のものにしていく。その様子は奇妙でもあった。もしマルがカサン本国の子であれば、容赦無く鞭を当てられたことだろう。しかし、叱られるたびに「スーン」と鼻をすすり今にも泣き出しそうな様子で体を震わせるマルを鞭打つなど、ヒサリには到底考えられなかった。鞭がより似合うのはナティの方であったが、ヒサリは自分の信念から子どもに鞭だけは使わないと心に決めていた。鞭で子どもを脅す事は子どもの学習を妨げるからだ。ナティはマルよりもさらにお行儀が悪かった。机の上に足を投げ出すような事すら平気でした。しかもマルとは違って、ナティからははっきりとヒサリに対する反抗の意思が感じられた。ヒサリはその都度ナティを言葉の鞭で叱りつけた。しかし一向に相手は懲りる様子が無い。ヒサリは何度かナティを出入り禁止にしようと考えたが、やがて気が付いた。ナティは、ヒサリがマルに向ける叱責を自分に向けさせるためにわざとそうしているのだという事を。というのも、ナティはバダルカタイ先生の授業の間はいつもきちんと椅子に座って真面目に勉強しているのだ。バダルカタイ先生は、たとえマルが床に座り込もうが紙を散らかそうが決して注意をしなかった。

(叱る事は逆効果なのだろうか? ……ああ、やはりこの教えるという事は難しい…簡単に出来る事じゃない…)

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