第55話 バダルカタイ先生 10
ヒサリは自分の部屋に戻ると、夜食のパンと茶を机の上に置いた。これから、カサン軍文化部隊の本部に当てた報告書を作成しなければならない。
ヒサリには、現地の子ども達へのカサン語教育に加え、もう一つ重要な任務がある。それは、アジェンナ総督府による円滑な統治を進めるための情報を収集し報告するという事である。この地の気候、人々の気質、慣習、考え方、反カサン感情や反カサンゲリラの活動……様々な方面に関して、なるべく多くの情報を正確に報告する事が求められた。ヒサリは、この地の妖人と呼ばれ蔑まれている子ども達が実に学習意欲が高いということを、ダビやトンニの例を挙げながら具体的に書いた。マルの事を書くのはもう少し様子を見てから……。しかしいつの日か彼の事を報告書に書ける日が待ち遠しくてならなかった。
やがて、馬小屋の方から微かにマルの歌声が聞こえて来た。それを聞きながら、ヒサリは心が弾むようだった。自分は今なんと幸せなのかと思うと同時に、彼の成長に対する責任に身が引き締まる思いがした。歌はやがて途切れ途切れになり、ついに完全に聞こえなくなった。ヒサリはランプを手に、馬小屋にマルの様子を見に行った。扉を開けると、マルのすうすうという寝息が聞こえた。ヒサリはそっと扉を閉じ、自分の部屋に戻った。
翌朝、ヒサリは目覚めると、すぐに身支度にとりかかった。顔を洗うと、長いまっすぐな髪を梳いた。化粧もせず、装飾品を身に着ける事も無いヒサリの唯一女らしい所がこの長く艶やかな黒髪であったが、それもきつく頭の後に一つにまとめた。そして軍から支給された制服を身に着けた。……そうだ。生徒達の前では常に威厳のある教師の顔でなければ。そして今馬小屋で夢を見ているであろう無邪気で気ままなひな鳥にも、少しずつ厳しさに慣れてもらわなければ。なぜならあの子を立派なカサン帝国人にするのが自分の務めなのだから。ヒサリは馬小屋に行くと扉を開けた。藁の上には、マルが横向きに丸くなって転がっていた。扉が開いて気が付いたのか、それともすでに目が覚めていたのか、イボの隙間の目がじっとヒサリの様子を伺っていた。
「よく眠れましたか?」
次の瞬間、マルの目からコロコロと涙がこぼれ落ちた。
「母ちゃんが死んじゃった……」
ヒサリはその瞬間、胸倉を掴まれたような気がした。こんな幼い子どもが、母親を失った悲しみを簡単に忘れられるはずがない。昼間は笑っていても、夜になればひっそり泣きたくなる、そんな日がこれからも続くのだろう……。ヒサリは、たった今、彼を厳しさに慣れさせようと決心したにもかかわらず、この子に「泣いてはだめ」などとはとても言えない、と思った。そんな事、この子にはあまりに酷だ……。しかし、ヒサリの沈黙を破ったのはマルの思いがけない言葉だった。
「おらは末っ子だから、母ちゃんから財産をもらうはずだったのに、もらえなくなっちゃった」
(なんですって? 今、財産って言ったわね。聞き間違いじゃないかしら?)
ヒサリは思わずマルの顔をじっと見返した。次におかしくなった。財産? 一体この子がどんな財産をもらうというのだろう? 歌う時の敷物かしら? それとも今身に着けているボロより少しはましな服かしら?
「財産ですって?」
するとマルがいきなり体を左右に揺らして歌い始めた。
「木こりの若者目を開き 姫を目にして走り寄り その足元にうずくまり 血を吐くように言いました 私はあなたに捧げます 雨をつないだ首飾り 光を織った洋服も 月で作った履物も 雲を集めたじゅうたんに お座りなさいお姫様 耳を澄ませてお聞きなさい 川のせせらぎ ほら、あれは あなたを称える歌なのです」
ヒサリは歌を聞きながら、ハッと気が付いた。ああそうだ! 財産というのは歌のことなんだ! この土地と歴史が育んだ歌という財産を、母の死によって受け継ぐことが出来なくなったのだ。マルはそれからしばらく、いろいろな美しい物が出て来る歌を歌っていたが、やがてピタリと口を閉じた。そのまま、藁の中から四つん這いになって這い出し、ヒサリの足元までやって来た。
(一体何をするのだろう……)
マルは胸から何かを取り出しヒサリの足元にばらまくような仕草をした。
「みんなみんなあげる! ヒサリにあげる!」
マルは、その場に立ち尽くしたヒサリの足に両手を重ねて置いた。イボだらけの小さな手の上にビチョンビチョンと大きな涙が砕けて落ちた。
「母ちゃんが死んじゃった。だからおらには、ヒサリにあげるものがちょっとしか無い」
「まあ、まあ、そんな事で泣くのはおよしなさい」
ヒサリはそう言ってマルの手を取り、上を向かせた。
「私はあなたから何かをもらうためにここに来たのではありませんよ。さあ、朝食を取って。その前に手だけでも洗いなさい。それから今日から本格的に勉強しましょう。死んだあなたのお母さんもきっと喜びますよ。それから、これから私の事をヒサリと呼んではいけません。オモ先生と呼びなさい。これは意地悪ではなく、カサン帝国人として馬鹿にされないように、いろいろ決まり事を覚えてもらう必要があるからです。分かりましたね」
この時、マルは夢が覚めたかのように、ブルッと小さく体を震わせた。
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