第54話 バダルカタイ先生 9

 ヒサリが溜息を共に教室の外に視線を向けたその時だった。一筋の風と共に、鈴を鳴らすような歌声がヒサリのもとに飛んで来た。ヒサリはすかさず立ち上がり、教室の外に出た。すると、教室を覆うバニヤンの太い幹の向こうに、マルが一人ぽつんと立っているのが分かった。ヒサリは思わず両腕を伸ばして彼に駆け寄りたくなった。しかしその気持ちをグッと抑えた。

(この子を特別扱いしてはならない。この子に触れたりしたら、この国では『みだらな行いをする魔女』などと言われてしまうんだわ…)。

ヒサリは、自身の胸の鼓動を聞きながらゆっくりと小さな子に近付いた。ヒサリがマルの目の前に立つと、マルはヒサリの顔を見上げ、ぽつんと言った。

「兄ちゃんがいない……」

 ヒサリは一瞬、胸が裂かれるような思いがした。彼の顔を見返す事が出来ない。木立の方に目を向けたまめ、ようやく口にした。

「だから言ったでしょう。あなたのお兄さんは生きていくために必要な事を勉強するために遠くに行ったのよ」

「でも、どうしてなんにも言わずに行っちゃったんだろう……」

「あなたに引き留められると出かけにくくなると思ったんじゃないかしら。寂しいけれど少しの間我慢しましょうね。二、三年したら戻って来ると思うわ。あなたはそれまでここでしっかり勉強するのよ」

 マルは頷いた。ヒサリは自分の寝泊りしている小屋にマルを連れて行こうとしたが、すぐにバダルカタイ先生に言われた事を思い出した。この子は歌うためでなければ決して身分の高い人の家には上がらない、という言葉を。

「これからあそこの部屋で、あなたがさっき歌っていた歌を、私に聞かせてくれないかしら」

 マルは再びこくんと頷いた。

 部屋の中には、寝台と書きもの机と書棚があるだけだった。書棚は真ん中の一列だけが本で埋まっている。マルは興味深げに部屋のあちこちに顔を向けた。それから身に付けているボロの胸の辺りから布を取り出し、広げて床に敷いた。ヒサリはそれが、物乞いが歌う時に使用するもので、妖人が身分の高い人の家に上がる時に、その家を汚さないようにするための配慮だということに気が付いた。しかし床には既にマルの黒い足跡がたくさんついているのはご愛敬だった。マルは布の上であぐらをかき、

「では歌います」

 と言った。彼の口から流れてきたのは、まるで柔らかい夜明の光に満たされたかのような優しい歌だった。それは一人の子どもの誕生を歌ったものだった。大きな戦が終わってアジェンナから「白い主人達」が去り、代わりに「黄色い主人達」がやって来た年の雨季のある日に、年老いた歌うたいの父親と母親の六番目の子どもとしてこの世に産まれた、と歌われた。ヒサリは聞いているうちに、これはマルの誕生を歌ったものだと気が付いた。恐らく、彼の父親か母親がマルのために作ったものだろう。……ああ、なんと恵まれた幼少期を過ごしてきたんだろうこの子は! 着ているものはボロでも、たくさんのものを親から与えられてきた子なのだ。ヒサリは歌から、彼の生まれた年と日付を知ることが出来た。マルが生まれたのは、まさに、アジェンナ国がこの国で暴虐と搾取の限りを尽くしたピッポニア帝国の手を離れ、カサン帝国に編入された記念すべき年だった。その事をヒサリは嬉しく思った。歌の最後は、子どもがあまりに美しく光り輝いているためにこの世に太陽が二つあっては困ると神様がこの子の顔をイボイボで覆った、と結ばれていた。歌が終わるやいなや、ヒサリはマルに言った。

「マル、これはあなたの事を歌ったものね!」

彼はそう言われて急に恥ずかしくなったのか、もじもじと自分の足の指をいじり始めた。

「足なんか触ってはいけません。堂々としていなさい。あなたは立派に歌ったんですから。さあ、お腹が空いたでしょう」

 ヒサリはパンと燻製の肉を乗せた皿をマルの前に置いた。しかしマルは石のように体を丸めたまま動かなかった。

(やっぱり、バダルカタイ先生が言った通り、ここでは食べないんだわ)

 ヒサリは仕方なく立ち上がった。

「ここでは食べるのは嫌なのね。だったらこっちにいらっしゃい」

 ヒサリは小屋を出るとマルについて来るように促した。そして少し離れた場所に立つ馬小屋に入った。マルは中につながれている馬を目にするやいなや、嬉しそうに話しかけた。

「ああ、お馬さん、また会ったね!」

「あなたは今日からここを自由に使っていいわ。食事を取るのも、寝るのも、本を読むのも、歌を歌うのも自由。ただし、馬にいたずらだけはしないこと」

 マルは返事の代わりにフフフフと笑い声を立てた。そして床に敷かれた藁の上にいきなりごろんと転がり込み、まるで小鳥が水浴びをするかのように手足をバタバタさせた。

(幼い。本当に子どもなんだわ……)

 ヒサリはたった今、マルが歌った歌から彼が今、六歳だと知った。けれども彼は心も体もその年齢より幼く見える。

(いいのよ。『大きな鍋は沸かすのに時間がかかる』という諺もある。焦らずじっくりこの子を育てよう。そして明日にでもここに机と椅子を用意しよう。本もなるべくたくさん揃えよう。カサン語の放送が聞けるようアンテナを立ててもらってラジオを取り寄せて置こう。外からは分からない位立派な勉強部屋をこの子のために作ってあげよう……)

 こんな事を考えているうちに一日の疲れも忘れて気持ちが浮き浮きしてきた。ヒサリは藁の中に飛び込んだまま背中と尻をもぞもぞ動かしているマルに向かって声をかけた。

「さあ、食事をここに置いておくから好きなだけ食べて、ゆっくり休むといいわ」

 ヒサリはそう言ってそっと扉を閉じた。

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