第52話 バダルカタイ先生 7

 ダビとトンニが帰り支度をしている間、ナティも「さあこんな所からは一刻も早く帰ろう」と言わんばかりに友の腕を引っ張っていた。

「ああ、待ちなさいマル! あなたは洪水があってからろくに何も食べてないんでしょう。ここで食べて行きなさい」

 ナティはさすがにマルが食事を取る機会まで妨げる事は出来ず、ただ黙ってヒサリを睨みつけていた。ヒサリは、教室から少し離れた場所に建てられた自分が寝泊りする小屋に戻ると、カサン本国から送らせたパンや燻製肉、発酵野菜などを入れた箱を持ってマルとナティ、そしてバダルカタイ先生が待つ教室に戻った。

「さあ、バダルカタイ先生も召し上がって下さい」

 ヒサリは椅子に座っているバダルカタイ先生と床に座っているマル、ナティの前に食べ物を並べた。するとナティがすかさず

「俺が毒見してやらあっ」

 と言ってサッと手を伸ばしてパンを取り、がぶりと齧った。

「何だ、へんちくりんな味だな! こんなもん食ってたらケツの穴から牙でも生えてきそうだ」

 そう言ってパンを皿の上に戻した。

「では、いただくことにしましょう」

 バダルカタイ先生が食べ始めたのに続いてマルもパンを手に取った。マルはお腹が空いていたのか、しばらくの間無我夢中で小さな口を動かしていたが、半分程食べたところでこう言った。

「残りは兄ちゃんに持って帰ろう」

 ヒサリはハッとした。マルは、兄さんがビンキャットによって少年矯正院に送られた事を知らないのだ。

「……あなたは、お兄さんの所には戻りません。今日からそこで寝泊りするんです」

 ヒサリは、自分が寝泊りする小屋を指さしながら言った。

「……え……」

 マルのイボイボの顔に埋まった目が大きく開かれるのが分かった。

「あなたのお兄さんは、生きていくために必要な事を学ぶためにここから少し離れた所に行くことになったんです。だから当分会えないけど、心配は要りません。ちゃんと食事を取って涼しい場所で過ごしているはずです。さあ、あなたもしっかり食べて、お腹いっぱいになったらあちらへ絵本を見に行ってみましょう」

「へえっ、その絵本って奴、俺にも見せろ」

 ナティはやんちゃな表情にいたずらっぽい目を輝かせて言った。

「けれども条件があります。あなた達二人共水浴びをすること。あなた達、本当にひどい格好をしてる」

「チェッ、何だようっ!」

 ナティがたちまち鼻と口をひん曲げた。

「分かったぞ! 学校に通うにはダビみてえに気取った格好しなくちゃいけねえって事だなっ! やなこった! 冗談じゃねえ! 俺もマルも雨乞い人形やかかしなんかじゃねえ! 人だっつーの! 人なら動くし動きゃ汚れる、あったりめえだろ!」

「そうじゃありません。身なりをきれいにすることは心の汚れも洗い流すということです。そうすれば学んだ事もしっかり身に付きます。それに体をきれいにする事によって様々な病気の予防にもなります。さあ、食事が終わったら外の水がめに溜めた水で体を洗いましょう」

「イヤ!」

 思いがけないことに、鋭い声で拒絶したのはマルの方だった。

「兄ちゃんの所に帰る!」

「だからあなたのお兄さんは……!」

「帰る!」

 しまった、失敗だった! いきなり家族がどこか遠くに行ってしまったなどと言われて納得出来るわけがない。ヒサリはそう思いつつも、何とか彼を引き留めるためにその手を取ろうとした。しかし、バダルカタイ先生が突如立ち上がり、ヒサリの前に立ちふさがった。

「オモ先生、その子を帰してやるべきです。あの子が先生の家に上がるはずがありません。卑しい妖人が身分の高い人の家に上がるのは忌むべき事であり、そんな事をしたら災いが降りかかると教えられているはずです。物乞いが人の家に上がるのは、歌を歌う時だけです」

「じゃあ、私はあの子に歌ってもらう!」

「それならば、歌が終わったら速やかに家から出さなければなりません。それ以外の事であの子を家にとどまらせたり、食事をさせたり、ましてや寝泊りなどさせたら、それは非常に卑しく淫らな行為とみなされます」

「淫らですって!」

 ヒサリは、思いがけない言葉を耳にし、思わず声を上げた。

「私がこの子に何をするというの!?」

「よく考えてみてごらんなさい。普通の人間なら、イボだらけの醜い卑しい子に触れる事など出来ないはずです。それが出来るあなたという人間を、人は魔女か妖怪の類とみなすでしょう」

 その時、ヒサリの目に、マルがナティについて教室からヨタヨタと走り去っていく姿が映った。

「ああ、待って!」

「オモ先生、あの子達の好きにさせてやるべきです。あの子達が自ら望めば、再びここに来るでしょう。私にもあの子が賢い子だというのは分かります。ですからあの子にここでカサン語を教える事はよろしい。しかしあの子に何か食べさせたり本を読ませたいと思うなら、あなたの部屋ではなくあそこですべきです」

 バダルカタイ先生が指差したのは馬小屋だった。

「なんですって!」

「いいですか、オモ先生、あの子達に勉強を教える事は構いません。しかしあの子達が思い上がって自分は平民と同じだと思うようになることなど、ゆめゆめあってはなりません。身分の上下を無くすということは、天と地を逆にするに等しい行為です。それは国がひっくり返るということなのです」

「それは間違った考えです!」

「オモ先生は我々のことを遅れた野蛮な民族と思っていなさることでしょう。ではお尋ねします。オモ先生はカサン皇帝を自分の足元に跪かせることは出来ますか? 子どもが自分の父や母を自分の足元に置くことが出来ますか?」

「それとこれとは全く意味が違います!」

「そうでしょうか」

 バダルカタイ先生が続けた。

「オモ先生は、カサン国がアジェンナと立場が入れ替わり、アジェンナの下に置かれても構わない、と仰るのですか?」

「私はアジェンナがカサンの下にあると思ったことなんか無いわ!」

 ヒサリは叫ぶように言った。

「ただ、カサンはアジェンナに比べいくらか早く近代文明を手にしました。この文明の果実をアジェンナの人に分けたいだけのことです。カサンとアジェンナに上も下もありません。全く平等です。私はアジェンナの人達に、人は誰でも平等だということを教えたいのです」

「もし我々が、そんな事教えてもらう必要は無い、あなた方に出て行ってほしい、と言ったらどうでしょうか?」

 ヒサリは、息が詰まるような思いでバダルカタイ先生の方を見返していた。するとバダルカタイ先生は、フッフッフッと口元から微かな笑いを漏らした。

「今、この事をこれ以上話すのはやめましょう。あの子達は今明らかにオモ先生の事を必要としているようですから。マルも恐らくまたここに来ることでしょう。けれども、あの子に水浴びをさせることはおよしなさい。イボイボの肌をきれいな水で洗うと切り裂かれるように痛いのです。それから偉大なカサン人は、あの病気を治す薬も発明したそうですな。けれどもそんな薬をあの子に飲ませるのもおよしなさい」

「それはどうしてですか!?」

「そんな事をしたら、人はマルが悪魔と取引をしたと噂するでしょう。それに、付け加えて言いますと、あの忌まわしいイボイボこそがあの子を守っているのです」

「それはどういうことですか?」

「考えてもごらんなさい。あのイボイボがあるおかげで、どんな悪党もあの子に手を出し危害を加えることが出来ません。野犬すらイボイボを嫌がって噛みつかないと言われています。顔かたちのきれいな子なら人さらいに連れていかれていかがわしい行為をされるとこともしょっちゅうです。あのように無防備で人懐こい子ならなおさら。しかしイボのおかげでそんな心配ありません。また人を寄せ付けないため、病気もうつりにくいのです」

「でも、あのまま放っておくと、病気が進行して死んでしまう!」

「オモ先生、イボイボ病はとてもゆっくり進行します。イボイボ病で死ぬ者などめったにおりません。彼らは貧しさで死ぬのです。飢え死にしたり、あるいは天災によって。あるいは絶望や孤独によって死ぬのです。十分な食事と適度に涼しい寝起きの場があれば長生きする者もおります。だからせめてあの子が自分で自分の身を守れる程大きくなり、さらには自分で望むまで、イボを奪うべきではないのです」

 ヒサリはただ黙って相手の話を聞いているより他無かった。

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