第51話 バダルカタイ先生 6

 遠ざかるビンキャットの背中に向かってナティが言う。

「いつも面の皮一枚で笑ってやがる。気持ちわりぃおっさんだよな!」

ヒサリはまたしても吹き出しそうになった。

(彼の事を不愉快に思うのはここの子たちも同じなのね!)

しかしヒサリはそんな本音を隠し、顔を引き締めて言った。

「目上の人にそのような事を言ってはなりません!」

ビンキャットの姿が見えなくな入れ替わるように別の方向からバダルカタイ先生が姿を現した。バダルカタイ先生がゆっくりと校舎にたどり着くのを待ってから、ヒサリは言った。

「先生、お待ちしていました! 時間になっても来られないもんですから、どうなさったかと心配していました」

「我々アマン人はカサン人のように時間に厳格ではありません。先生はこのようなアマン人を、約束も守れない怠惰な民族だとおっしゃりたいのでしょう」

 ヒサリは、自分のカサン人らしい厳しさや生真面目さがこの年老いた教師の気分を害したらしいと感じた。しかしだからといって、事を荒立てまいと黙って下を向くような真似はしたくない。

「そういうわけではありません。あの子達は夕方になれば家に帰って仕事を手伝わなければなりません。先生が来るのが遅れると、それだけ勉強する時間が減ることになります」

「なるほど、先生の仰る事は筋が通っています。しかし今日は、先生がこんなにも熱心に教えておられるものですから、先生の授業と生徒達の勉強具合を見せてもらうことにいたしましょう」

 バダルカタイ先生はそう言って、教室に五つ並べられている椅子のうちの一つを引いて腰掛けた。ヒサリの背中に微かな緊張が走った。確かに、この国の母語の教育体制は実にお粗末で、ピッポニア帝国支配時代の学校ではピッポニア語の教育がほとんどであった。アマン語の読み書きは、地域の「識者」によって、小さな私塾で細々と教えられたにすぎない。バダルカタイ先生も、専任の教師ではなく、手紙や書類の代書に加え、畑仕事など様々な仕事をしながら子ども達に教えているようだ。洗練された教育技術を持っているはずがない。しかし、十八歳のヒサリの三倍は生きているであろうこの白髪の教師には、「老師」とでも表現したくなるような威厳があった。

「分かりました。では今日は引き続きカサン語の勉強をしましょう。ダビ、私に続いて教科書を読みなさい。サイタ、サイタ、ハナガサイタヨ アカヤキイロヤアオイイロ ドノイロノハナモキレイダナ」

 ヒサリが読むのに続いて、ダビが繰り返した。つっかえたり、発音がうまくいかなかった部分は言い直させた。しばらくそれを続けているうちに、ダビとは違う方向から、小さな鈴を鳴らすような声が聞こえてきた。ヒサリはハッとした。

(……マルだわ!)

 ヒサリはダビの朗読を聞きながら、同時にマルの囁くような声にも注意を向けた。マルはダビとは違って、その言葉の意味を知っているはずがない。ただただ、カサン語の響きを楽しんでいるのだ。カサン語と遊び戯れているかのように、ヒサリの言葉を真似ている。そしてその発音は、ヒサリの言葉を引き写したかのように正確だった。

(そうだわ! この子は産まれた時から母親の語る歌物語を聞き覚えて育ったんですもの。こういう事は得意なはずだわ!)

 ヒサリが

「よろしい」

 とダビに言うと、ダビはすかさずマルの方を振り返り、戸惑ったような表情を見せた。マルの横にくっついて座っているナティは声を上げた。

「何だよそりゃ! やっぱり魔女の呪文にしか聞こえねえぜ」

 カサン文字の書き取りをしていたトンニも、途中から目を丸くしてマルの方を見詰め出した。

「お前は妖怪の言葉が分かるってみんな噂してるけど、カサン語も分かるのか?」

 ダビが尋ねた。

「ううん、分かんない。でもとっても素敵に聞こえるから」

 マルは無邪気に答えた。ヒサリは子どものやり取りを聞きながら思った。

(マルは伸びる子だわ! ここはラジオの電波は届くかしら? アンテナを立てて、カサン語の放送を浴びる程聞かせてやろう。二、三年のうちにカサン本国の子に比べても遜色の無い程喋れるようになるに違い無いわ)

 ダビはマルがヒサリを真似てスラスラとカサン語を喋ったのを聞いて、大いに発奮したらしかった。予定していたよりもっと先まで教えてくれとヒサリに迫り、帰らなければならない時間になると宿題を出してくれとヒサリに要求した。

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