第50話 バダルカタイ先生 5

 その時、まるで熱帯の中を吹き抜ける風のような澄んだ歌声が、ヒサリの耳に飛び込んで来た。ヒサリはハッとして、歌声のする方に顔を向けた。小さな校舎には壁が無い。代わりに校舎を覆うバニヤンの巨木の垂れ下がった枝が壁替わりとなっている。その枝の向こうから、一人の大人と二人の子どもが姿を現した。

「歌ってないでさっさと歩け!」

 そう怒鳴っているのはビンキャットだ。

「うっせーな、揉み手のおっさん! 歌わせてやれよ! マルは今寂しいんだよ。分かんねえのかよ! だいたいマルの歌声はきれいだが、あんたがわめきゃ喉の奥のヤニが飛び散って空気が汚れてしょうがねえぜ! ウエーッ!」

 そうわめいているのは、初めてマルと会った時にマルと一緒にいて、ヒサリに向かって石を投げつけたあの子だった。ヒサリは、子どもがビンキャットを「揉み手のおっさん」と言ったのを聞いて吹き出しそうになった。ビンキャットはヒサリに気付くと、一人小走りにやって来た。

「マルの兄貴はマルがいない所でひっとらえてやりましたよ。散々抵抗されましたがね。まあ、あんな不良は矯正所でちっとはおとなしくなればいいんです。ああ、ちなみにマルはまだ何も知りません。まあ、子どもですし、適当に言いくるめておいしい物でもやっておけばいずれ兄貴の事は忘れるでしょう。問題はあのうるさいガキですよ。なんせマルの行く所どこでもついて回るもんですから。なんならあの子も矯正院に叩き込んでやりましょうか?」

「それはやめて下さい。いいんですよ、あの子が一緒でも。マルは母親を亡くして寂しいでしょうから、友達が必要です」

 友達の方がマルより先に校舎にたどり着いた。するとヒサリの背後でダビがいきなり、

「アー! お前!」

 と声を上げた。するとマルの友達はたちまち眉を吊り上げ、口泡を飛ばし始めた。

「てめえこそ何だよ! 気取った格好のかかし野郎が! 俺はな、マルがこんな所に連れて来られておっかねえ妖怪にでも食われちまうんじゃないかと心配でついて来たんだよ!

さてはてめえ、かかしどころかここで妖怪のキンタマ舐めてやがるな! そんなん聞いたらてめーの母ちゃんおっぱいもげるぜ! 」

「うるさい! ここはお前なんかの来る所じゃない! 帰れ!」

 これまでずっとお行儀よくカサン語で話していたダビが、突如やんちゃ坊主を剥き出しにしてアマン語で罵り始めた。

「おやめなさい!」

 ヒサリが一喝すると、ダビはピタッと黙った。しかしマルの友達は、ヒサリの顔を目に留めるやいなや

「アーッ」

 と、さらに大きな声で叫んだ。

「お、お前、あの時の魔女……!!」

「このチビ! 何てこと言うんだ!」

 ビンキャットが子どもの頬を殴りつけた。子どもの痩せた体は殴られた勢いで地面に倒れた。

「ああ、ナティ!」

 マルはそう言って、倒れた友の傍に駆け寄り、しゃがみ込んだ。

「暴力はやめて!」

 ヒサリはとっさに叫んで教室の外に飛び出した。この時、マルがふと目を上げた。ヒサリと目が合った。

「……ヒサリ……」

 マルの声込められた響きは驚きとは違っていた。

(ああ、やっぱりあなたなんですね)

 そんな静かな喜びがそこにあった。ナティと呼ばれた子は、殴られた事など物ともせず、ヒサリに向かってわめき続けた。

「お前、マルをこんな所に呼び寄せて何する気なんだよ! 取って食おうってんじゃねえだろうな! いいか! 煮ても焼いてもマルは食えねえ!」

「…………」

「刻んでも焙っても、もちろん生でも食えねえ。イボがあるから! こいつには イ・ボ・が・あ・る・からな~~~!!!」

「あなたが私のことを魔女だと思うのならそう思っても構いません。でも、マルは母親を亡くしたんです。私はこれからマルに、この先立派に生きて行くための知恵を母親に代わって与えなければなりません。あなたにそれが出来ますか?」

「…………」

 ナティはいきなり口をつぐみ、ヒサリの方を睨むようにじっと見返した。

「さあ、いらっしゃい。まずはここで今、どんな事をしているかを見るといいでしょう」

 ヒサリはマルに、梯子段を上がって教室の中に入るよう促した。しかしマルはおずおずと教室の前に立ち止まったままだった。

「さあ、入るんですよ!」

 ヒサリがさらに強く言うと、マルはようやく梯子段を上った。ヒサリは、ダビとトンニがいくらか動揺しつつマルの方を見ているのに気が付いた。ヒサリは二人の方にサッと顔を向けて言った。

「いいですか、あなた方に覚えておいてほしい事があります。それは、カサン帝国臣民は誰しも平等であるという事です。カサン本国人であれ、あなた方新しいカサン帝国人であれ、川向うの人間であれこちらの人間であれ、貴賤の差は一切ありません。あなた方は決して誰からも蔑まれてはならないし、誰も蔑んではなりません。分かりましたね。……さあ、座りなさい、マル」

 ヒサリをじっと見上げている目はイボで半分潰れているため、その奥の表情を読み取る事は出来なかった。ただ、ヒサリに座るように言われたマルはペタリと床にしゃがんだ。本当はダビやトンニのように椅子に座らせたかったが、さすがにそれはいくらなんでもまだ無理というものだ。するとナティがすかさず傍にしゃがんだ。ヒサリはビンキャットの方に駆け寄り、手間賃を渡した。一刻も早く彼を追い払いたいという気持ちから、とっさに出た行為だった。ビンキャットはうやうやしく頭を下げ、

「明日はうちのせがれを連れて来ます」

 と言って木立の中に消えて行った。

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