第45話 再会 8

「おやおや、これはこれは! オモ・ヒサリ先生ではありませんか!」

 聞きなれた、耳の奥に絡みつくような声を聞き、顔を向けると、そこにはあのビンキャットという男が立っていた。

「先生どうしてこんな所に?」

 ヒサリはハッと我に返った。

「ここの子達が洪水の被害にあったんじゃないかと心配で、いてもたってもいられずここに来たんです。ダビッドサムやトンニットサンは大丈夫かしら」

「ああ、あの子達の家は高台にあるから大丈夫ですよ。それにしてもこんな卑しいわたくしどものことを心配して下さるとはなんとなんとお優しい先生でしょう! しかもあのイボイボのマルにまで情けをかけて下さるとは大したお方です」

「あの子はこの度の洪水で母親を亡くしたらしいの。私は何とか、あの子の力になってあげたいのよ。けれどもあの子の兄さんは、私やカサン人の事を良くは思ってないようです」

「先生は、あのイボイボのマルのことが可愛いのでしょう」 

 ビンキャットの視線は、まるでヒサリの肌に染みを付けるかのようであった。ヒサリは、目の前の男にそんな風に自分の気持ちを推し量られることに、ゾワゾワした不快感を覚えた。

「分かりますよ。あの子は素直ないい子ですからね」

 ビンキャットは以前はマルのことを「汚いちび」などと言ったのに、如才なくヒサリの気持ちを汲み取ってそんな事を言うような芸当を見せるのだった。

「ただあの子の兄というのは問題児でしてね、悪い仲間との付き合いもあるようですし、放っといたら泥棒にもなりかねない奴ですよ。なんなら、とっつかまえて牢屋にぶちこんでもいいんですが」

「ちょっと待って! 罪も無い子にそんな手荒な事はしないで! あの少年が泥棒をしたという証拠はあるの?」

「いや、ありゃしませんけどね、楽器を弾いて歌を歌うしか能が無いガキですから。近頃は歌で稼ぐったってたかがしれてます。もっといいものを食べていい着物を着たい、好きな女の子に贈り物したい、そういう年ごろですよ。物乞いで得た僅かな金で満足出来るもんですかね。自然に盗みにでも手を出すようになりますよ」

「でも、実際に罪を犯していない子をつかまえて牢屋に入れるなどそんな乱暴はカサン帝国領内では許されません」

「それでは、少年矯正院に送ってみてはどうでしょう」

(少年矯正院……)

 ヒサリは、そのような施設がある事は知っていた。通常の学校とは違い、貧しさゆえに犯罪に手を出した子どもや、ゲリラやテロリスト予備軍といった不良少年を集めて教育を施す施設だという。教員の募集も行っており、給料が高いためヒサリも応募しようとしたが、男子しか募集しておらず断念した。ここに入れば食べ物は与えられ、職業訓練も受けられる。勿論自由は無いので、本人は嫌がるだろう。しかし少年の先々の事を考えると、彼を少年矯正院に送るというのは一番賢明な選択肢ではないかと思った。

「そうね。それではそうしてちょうだい。でもくれぐれも手荒な真似はしないで、人間らしい扱いをお願い。そしてあの小さな弟の方は私が責任を持って面倒を見ます」

「いやはや、なんと情熱にあふれた立派な先生でありましょう! どうかそのお恵みをうちのせがれに分けていただくことは出来ませんでしょうか? うちのせがれを先生の学校に通わせたいのですが」

「もし本人にやる気があるのなら、来てもらって構いませんよ」

「それではお言葉に甘えて……さあニジャイ、先生に挨拶なさい」

「ビンキャットの後ろから、八歳位の少年がいきなり姿を現した。笑顔を見せてはいたが、それは子どもらしい無邪気なものではなく、既にこの年にして大人の顔色を伺い、機嫌を取る事に慣れているように見えた。少年に対する第一印象は、ダビやトンニのように良いものではなかった……。しかしヒサリは、そんな事をおくびにも出さないようにしながら言った。

「流された橋が再び架かり次第、必要な本や道具を運ばせてただちに学校を開始します。そうしたらいらっしゃい。それからあのマルも……」

 ヒサリは素早く、自分の胸ポケットの懐中時計を取り出し、ビンキャットに握らせた。自分がうぶで世間知らずな小娘などではなく、この国の習慣も熟知している事を相手に分からせる目的もあった。この国では、物事を円滑に進めるには「袖の下」が欠かせない。そして、この男になんとしてでもマルを自分のもとに連れてきて欲しかったのだ。父の遺品で高価な物だ。しかし死んだ父の思い出より、生きているマルの方が大事だ。ビンキャットは、この国の人間特有の曖昧な笑みを浮かべた後、時計を素早く懐にしまい、恭しく頭を下げた。

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