第43話 再会 6

 三時間程馬を走らせ、ヒサリは川辺にたどりついた。しかしヒサリの目に映った光景は、かつての様子から一変していた。

川幅は遥かに広く、妖人地区に渡るための橋は跡形も無い。また向こう岸の川べりにずらりと並んでいた、人々が確かに住んでいたはずのみすぼらしい小屋も、激しい水の流れにかき消されていた。ヒサリは馬を下り、ぼう然と川辺に佇んでいた。自分の魂までも川と共に流されて行くようだ。そのままフラフラと歩いた。

それから数十歩も行かないうちに、足元の転がる何かボロ切れに包まれたものにぶつかりそうになった。それは小さく震えながら、何か呻くような声を発している。

(生き物!)

 ヒサリはギョッとして足を止めた。クシャクシャの黒い髪、イボだらけの小さな足……。

「あなたなのね!」 

 おお、神様! ヒサリは思わず心の中で叫んでいた。これは神の導き以外の何であろうか! まさかこんな場所で、こんなにあっさりこの子と出会えるなんて! マルはゆっくりと顔を持ち上げた。イボの隙間の目が、ちんまりとヒサリの方を見詰めている。そのままマルはじっと静止していた。あまりに動かないものだから、ついにヒサリは口を開いた。

「生きていて良かった! 私はずっとあなたのことが気になっていたのよ」

 ヒサリはアマン語でマルに話しかけた。しかしマルはまるでおしになったかのように黙りこくっている。ただイボイボの奥の目が現れたり消えたりしていた。

(どうしてこんなに私のことを見詰めてるんだろう)

 安堵も加わり、ヒサリの胸に可笑しさが込み上げてきた。ヒサリが立ち上がると、その動きに合わせるように、ヒサリの顔を見詰めたままぐいーっと頭を動かした。

「さあ、こんな所にいても暑いから、一緒にあそこの木陰に行きましょう。

 ヒサリが手を差し出すと、マルはそーっと自分の両手を出したが、ヒサリの手にくっつく直前にひょいと引っ込め、そのまま地面に手をついて立ち上がった。木の下にマルと並んで腰を下ろすと、ヒサリは素早く鞄の中からあの本を取り出した。以前出会った時、マルが興味津々な様子で見詰めていた本だ。

「この本はね、私のおじい様が、この国に伝わる有名なお話をカサンの子ども達に紹介するために書いた本なの。あなたの知っているお話があるかもしれない」

 マルはヒサリの顔を見詰めながら口を開いた。しかしその口からは何一つ言葉は出て来ず、ただいくつか息を吐きだしただけだった。

「ああ、馬鹿ね、私ったら! そんな事よりお腹が空いたでしょう?」

 ヒサリはパンを鞄から取り出してマルの手に持たせた。しかしマルはパンを手にしたまま口にしようとはせず、膝に乗せた本のページを一枚一枚めくり、絵のあるページでは手を止めじっと見入っている。アジェンナに来たこともない挿絵画家が描いた稚拙な絵だ。マルにはこの絵がどう見えてるだろう、と思った。

マルはやがて、鳥の羽を背中に付けた女性の絵にしばらく見入った後、

「シーリン?」

 と言ってヒサリの方を見上げ首をかしげた。物語のヒロインである鳥娘の名前だ。

「そう、そうよ!」

 マルはさらに貪るようにページをめくった。一人の青年が剣を手にし、龍に立ち向かって行く絵を見付けると、

「ラーレ王子?」

 と言って再びさっきと同じ仕草をした。ヒサリはなんだか嬉しくなった。マルの体が細かく震えている。声を立てないまま笑っているようだった。マルはさらに夢中になって一枚一枚ページをめくったが、とあるページでピタリと手を止め、食い入るように挿絵を見詰めた。そこには、マルと同じようにイボだらけの少年が描かれていた。

「トゥラ!」

 マルは再びヒサリの方にサッと顔を向けた。

「そうよ!これはトゥラ!」

 この時、マルの様子が一変した。目の前の小さな子が真剣に一枚一枚ページをめくる様は、書斎に閉じこもった時の祖父のように、話かけるのもためらわせるような気迫があった。やがて、トゥラが森に入り込み、様々な獣や妖怪と出会って知恵比べをする場面にさしかかると、再びグイッとヒサリに顔を向けた。

「ああ、これはトゥラが『森の人』に会ったところね」

 ヒサリが言うと、マルはいきなり体を左右に捩じりながらこう言った。

「違う違う! 『森の人』はこんなんじゃない! もっと大きいの!」

 マルは目の前に『森の人』を描こうとするかのようににグイッと腕を伸ばした。

「もっともっと、こんなに、こーんなに大きいの!」

 マルはそう言いつつ背中を反らし、そのままバッタリ後に倒れた。

「フフフフ」

 ヒサリは思わず笑いを漏らした。

「フフフフ」

 マルも笑った。そして興奮したように小さな足をパタパタと地面に打ち付けた。そのあどけない仕草は、醜い容姿を忘れさせる程ほほえましいものだった。

「そうなの? 教えてくれてありがとう。この絵を描いた人はおじい様とは違ってアジェンナに来たことが無いから知らないの。だからいろいろ、あなたの知っている事を教えて」

 やがて、マルはサッと体を起こし、再び一枚一枚挿絵に食い入るように見入った。トゥラの物語は、本に収められた話の中でもとりわけ長く波乱に満ちた冒険譚だ。このイボイボの少年が活躍する話をマルは特に気に入っているのだろう。途切れることなく次々めくられていく本のページは、やがて一番最後にたどり着いた。マルは、華やかな服に身を包んだ青年と娘の絵をじっと見入った。

「ああ、それはトゥラが結婚する所ね」

「結婚……」

 マルはサッと自分の胸に手を当ててヒサリの方を見た。

「結婚……結婚……」

 しばらく興奮したように体を左右に振っていたマルは、やがて少し落ち着きを取り戻し、挿絵を指差して言った。

「でも、トゥラは『妖人』だから、こんな服は着ないんだよ。髪も結わないんだよ」

 ……ああ、なんということだ! マルは図らずも、この国の苛酷で無慈悲な身分制度のことを口にしている。この国で「妖人」と呼ばれる人々は、あらゆる贅沢を禁じられている。柄物の服を着ることも出来ず身分の高いアマン人の青年のように髷を結う事もない。こんな幼い子が、それをさも当たり前の事のように口にする。しかもその口調はどこか楽しげですらだった。自分の知っている事をヒサリに教えるのが嬉しいのだろう。

「あーら、でもトゥラは最後、王族の血を引いていることが分かるのよね」

 ヒサリの言葉に驚いたのか、マルはホウッと息を吸い込んだ。

「おら、トゥラの話は初めの方しか知らないんだ」

 そのままマルは食い入るようにヒサリの顔を見詰めていた。やがてマルの体は小刻みに震え出し、顔面を覆うイボの間がら涙が溢れ出した。

「母ちゃん……母ちゃん……母ちゃん……」

 そのままマルはバッタリうつ伏せになった。その様子を見ながら、ヒサリははっきりと悟った。この子は川の氾濫によって、母親を永遠に失ったのだと。ヒサリは体を震わせているマルの背中を見詰めながら、言葉を失っていた。母親を亡くした小さな体にかける言葉などあるはずもない。ヒサリはしばらくの間ただ黙って子どもの背中を見詰めていたが、ようやく口を開いた。

「あなたのお母さんが死んでしまったのは残念なことだわ。でもこれから先のことは何も心配しなくていい。お母さんの代わりは出来ないけれど、出来る限り力になる。さあ」

 ヒサリは本をマルにしっかりと握らせた。

「この本はあなたのものよ」

 マルは本をきつく抱きしめ、さら泣いた。ヒサリはマルの震える肩に手を置いた。

「こんなお話を書いた本がまだまだたくさんあるの。きっと気に入ると思うわ。全部読めるようにしてあげるわね」

 マルは顔を上げてヒサリの方を見た。イボで半分つぶれた目は涙で輝いていた。

「この先に洪水にあった人達のための避難所があるの。とりあえずそこに行ってみましょう」

 ヒサリは子どもの体を抱え上げ、今まで自分が乗っていた馬の上に乗せた。

「怖いよう」

「怖くないわよ。体を楽にして、馬とお話するような気持ちでいればいいの」

 ヒサリは手綱を握り、ゆっくりと馬を進めた。しばらく進むうちに、マルはヒサリの言葉を真に受けたのか、本当に馬に向かって話を始めた。

「母ちゃんは、川の妖怪に魂を取られて死んだ兄ちゃんの所に行ったの?」

「どうしておらを置いて行っちゃったの?」

 そして、それに対する馬の言葉が聞こえるかのように「うん、うん」と頷いている。それは不思議な光景であった。それと同時に、そうやってあまりにも辛い現実を必死に耐えている子どもの様子がいじらしく、ヒサリの顔に噴き出す汗に涙が混じった。

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