第35話 農民の子ラドゥ 4
その時だった。突如、子どもの
「母ちゃーーーーん」
という、闇を穿つような声が響き渡った。小さな醜い体からよくもまあこんな声が、と思う程澄んだ、無邪気な、よく通る声だった。人に聞かれたら大変だ! ラドゥは慌ててバタンと扉を閉めた。子どもはすぐに口をつぐみ、へたへたと膝を床についた。そのまま小さくブルブルと震えていた。部屋の中の子ども達は、いきなり入って来た異様な姿の子に驚愕し、口もきけないでいた。やがてスンニがラドゥの腕を掴み、
「兄ちゃん、怖い! 化け物!」
と小声で言った。
「この子は化け物じゃないよ。人間の子だよ。しばらくうちで預かることにした」
母ちゃんはきっぱり言って、水の入った椀と葉っぱに載せた食べ物を子どもの前に置いた。子どもはそれらには目もくれず、丸くうずくまったまま小動物のようにブルブル震えていた。
「無理もないよ。可哀想に。川向うから流されて来て命からがらここまで来たんだ。今は母親と離れて一人ぼっちだ。しばらくそっとしておいてやろうよ。さあさあ、お前たちも食べるんだよ」
車座になった子ども達は、母ちゃんにせかされ、落ち着かない気分ながらも食事を取りはじめた。母ちゃんの言う事は、誰にも逆らえないのだ。
しばらく沈黙が一家を覆っていたが、ラドゥはふと思いついたことを口にした。
「橋が流されてた。当分川向うに金を借りに行くことは出来ねえ。学校は諦めるよ」
「何言ってんだ、学校は行くんだよ! カサン人の女の先生は、学費を少し待ってくれないかい?」
「無理だ。それに学校にはうちみたいな貧乏な家の子は誰もいねえ。地主や役人の子ばかりだ」
「弱音吐いてんじゃないよ。お前らしくもない。これからはうちら貧乏人こそ学問がいるんだ。あたしらは物を知らないばっかりに、なんでもかんでも金持ち連中に取られてばっかりだ。まずはお前が学校に行って、学んだ事をチビ達に教えてやる。噂によりゃ、学校には妖人の子も来てるそうじゃないか。今はそういう時代なんだよ」
全く母ちゃんの言う通りだ、とラドゥは思った。
「あのイボっ子の母親が、何か妙案を持ってやしないかねえ」
「母ちゃん、そりゃ無理だ。そんなこと知ってたら、この子だってもうちょっとましな格好をしてるはずだよ」
奥で寝ている兄ちゃんが言った。
「それもそうだ。物乞い達はいろんな事を知ってるけど、金持ちになる方法だけは知らないっていうからね」
母ちゃんはそう言って、物乞いの子の方を見た。ラドゥもつられて子どもの方を見た。子どもは相変わらず丸くなってうずくまって震えていた。しかし顔だけはしっかりとラドゥ達の方に向けている。
「怖がる事は無いよ。うちの子達はあんたをいじめたり石を投げつけたりはしないからね。まあそう言われても信じられないだろうねえ。うちのようなのは珍しいから。恐がるのは無理もないよ。……ああそうだ! 坊や、ここで何か一つ、歌物語でもしてみないかい?」
「母ちゃん!」
ラドゥは母の腕を引いた。こんなずぶぬれの、弱弱しく震えている子に歌えだなんて無茶だ! しかし驚いたことに、子どもはいきなりムクッと体を起こしたかと思うと
「はい」
と言った。この小さな物乞いの子は、人に請われたらいつでも歌うように言われているのだろう。そのまま小さなイボだらけの足を組んで胡坐をかき、歌う姿勢になった。
「それでは、これからトゥラの物語をします」
そう言って、ゆっくりと歌い始めた。子どもが高い澄んだ声で歌い出した瞬間、部屋の中の空気は一変した。子ども達は皆驚きの余り大きく目を見開き、物乞いの子の方を見た。歌は初めのうちは途切れ途切れでかすれていた。しかしやがて落ち着いてきたのだろうか、淀みなく言葉が流れ出した。
それはこんな物語だった。イボだらけのトゥラは手足がうまく使えないために、何をやっても失敗ばかり。ついにトゥラの父さんと母さんはトゥラを森に捨ててしまう…。
捨てられたトゥラはただ一人で森を彷徨う。月明かりを頼りにどこまでも深い森の中へ…。小さな物乞いの子は息もつかせず語った。皆あっけにとられてその様子を見詰めていた。小さな弱弱しい醜い子が長い長い物語を節を付けて歌う様は、全く信じられない光景だった。それは何かの魔法のようであった。
人々は言う。物乞いは妖怪に言葉を頭の中に吹き込まれるおかげであれほど長い歌物語をすることが出来るのだ、と。もしそれが本当なら、その妖怪とは何と愉快な連中だろう!
ラドゥもいつしかその切々とした歌に引き込まれていた。聴いているうちに、いつしか自分の周りから家族の温もりが消え、深い森の中をたった一人歩いている気がしてきた。物語はやがて、森に捨てられたトゥラが恐ろしい動物や妖怪に出会い喰われそうになる場面にさしかかった。トゥラはその度に「おらを食べたらお前もイボイボになるよ」と言って難を逃れ、頓智によって野獣や妖怪をとっちめる滑稽な場面が続く。たった今、この子を「怖い、化け物」と言ったスンニは、次第に前にせり出して来た。どうやらすっかり歌物語の虜になったらしい。トゥラと森の野獣や妖怪とのやりとりのくだりが終わると、物乞いの子はようやく
「フーッ」
と息を吐き、椀を持ち上げてコクコクと水を飲んだ。椀を床に置いた子どもは、自分の方を黙って見詰めている家族を少し困った様子で見返したまま、口をつぐんでいた。
「ねえねえ、それからトゥラはどうなったの!?」
スンニはそう言って、物乞いの子に続きをせかした。
「スンニ、その子はもう長いこと歌ったじゃないか。もうその位にしてゆっくり休ませておやりよ」
この時、ラドゥには、物乞いの子イボで一面に覆われた顔が、なんとなく微笑んだように見えた。
「それでは、続きを歌います」
物乞いの子はそう言って、ゆっくり首をを右に向け、左に向けた後、再び歌い出した。
「トゥラは森抜け川下り 海のそばまでやって来た 海のそばには平らかな 広い広い土地ありました 七つの山を切り取って 海に沈めて出来た場所 そこには北の人々が 作った妖怪 ひこうきが集うてお喋りしてました 私の見てきた国こそが 一番きれいと
それぞれが 自慢しあっておりました」
聴き手は皆、「ひこうき」という耳慣れぬ言葉を聞いたとたん、あっけにとられて口を開いた。ラドゥはいつしか物乞いの子の歌を聞きながら、銀色の固い翼を持った大きな人造の妖怪「ひこうき」をありありと脳裏に思い描いていた。やがて、トゥラが「ひこうき」に自分の身の上話をすると、「ひこうき」は北にはすばらしい国がある、一緒に行かないかと誘い、トゥラを頭に乗せて空高く、雲をめがけて飛び上がる。歌が一区切りついた所で、物乞いの子は
「フーッ」
と大きく息を吐き、再び椀を手に取ってゴクゴクと水を飲んだ。
「へえ、あたしゃこれまでトゥラの話は何度か聞いたことがあるけど、『ひこうき』なんて出て来るのは初めてだよ。面白いねえ」
母ちゃんは感心したように言った。
「それで? それで? トゥラは『ひこうき』に乗って北の国についたの?」
スンニはもうすっかり夢中で、膝でピョンピョン床の上を撥ねた。
「スンニ、もうこの子は疲れてるだろうから寝かしておやり。続きは明日だよ。ランプの油が切れちまう。さあ、坊やもお腹が空いただろう。食べたらお休み」
子どもは目の前に出された食べ物を口にした。一口、おずおずと食べた後はただ無我夢中で口を動かしていた。スンニはこの子のことを気味悪がっていたことなど忘れたように、自分も食べながらしきりに彼の方を振り返って見、彼が食べている様子が面白いと言って笑った。
子ども達が食べ終えると、母ちゃんは床に藁を広げて子どもが寝るのに痛くないようにしてやった。そして、家族はひと塊になって横になった。しかし、物乞いの子の一番近くで横になっていたラドゥは、自分が寝入る時まで彼が小声で「母ちゃん」と言ったり何かを歌うようにぶつぶつ呟くのを長いこと聞いていた。
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