第36話 農民の子ラドゥ 5

 小さな小屋の隙間から差し込む一条の光に頬を差された瞬間、ラドゥは目覚め、サッと体を起こした。扉のすぐ手前で、藁の中で眠っている子どもの体が微かに上下しているのが見えた。見れば見る程、小さな体だった。昨夜、あれ程長い物語をして家族全員を夢中にさせたなんて、全く信じられない。

ラドゥは外の様子がどうなったかを見ようと、子どもの体をそっとまたいで扉を開けた。その瞬間、驚きの余り息を呑んだ。辺り一面が茶色い泥水の世界だった。高床式の家の足元も、既に泥水に浸っていた。そして川は、今まで見たことのないような大きな水の流れになってゴウゴウと吠えたてている。そして、昨夜あれ程いた人々の姿は無かった。どこを見渡しても人気は無い。ただ脚を泥水に浸した水牛が呆然と立ち尽くし、鳥達がせわしなく空を横切って行く様が見えるばかりだった。ラドゥが呆然と立ち尽くしていると、脚に何か動く物が触れた。物乞いの子が目を覚まして起きてきたのだ。小さな子はしばらくラドゥの足元で外を眺めていたが、やがて

「母ちゃーん!」

 と泥水に満たされた土地に向かって声を響かせた。あまりに悲痛なその声を聞いたとたん、ラドゥの体が震えた。この子の母親と兄さんは一体どこに逃げたというんだ! 川べりで叫んでいた大勢の人達は一体どうなったんだ! 誰一人姿が見えない、ということは、みんな流されてしまったんじゃないか? 物乞いの子は再び

「母ちゃーん!」

 と叫んだ。しかしラドゥには止めようがなかった。一面、泥水に覆われた土地は、子どもの声を呑み込むばかりだった。

「心配しなくていいからね。あんたの母ちゃんは水が引いたら迎えに来るさ」

 目を覚ました母ちゃんが、二人の背後から言った。しかしその声は、ラドゥが普段聞きなれている自信に満ちた声とは違っていた。母ちゃんは物乞いの子の不安を断ち切るように扉を閉めた。

「さあさあ、心配してもどうしようもない。腹ごしらえしながら水が引くのを待つんだ。ラドゥもしばらくゆっくりするんだ。神様がくれた休息だと思って。食べる物もあと数日分はあるからね」

 母ちゃんはそう言って、既に目を覚ました子どもたちと車座になって食事の準備を始めた。しかしその間も時々扉にぴったり貼りついている物乞いの子の方をチラチラ見ていた。

「困ったもんだ……」

 と呟いた。この子の母親と兄さんは死んだのかもしれない、という不安を、重々しい声は物語っていた。

「それにしてもひどいもんだ。あたしが覚えている限り、こんなに川の水が増えたのは初めてだよ」

「どうしてだろう。天空霊が怒ったのかな」

 兄ちゃんが言った。

「天空霊じゃなくて、ダムっていう妖怪のせいだろうね、きっと。物乞いがそんな歌うたってのをあたしゃ聞いたことがある。ダムってのはもの凄い力があって、色んな事が出来るらしいが、とんでもなく大食いで、村まで丸ごと飲み込んじまうらしい。そんなに大食いだから、腹を壊して吐きだしちまったんだろうよ」

 母ちゃんは言った。

「ダムを鎮める儀式はするかな」

 ラドゥはふと胸に生じた不安を口にした。

「それは村長が決めるだろうさ」

「そうなったら、ダムに捧げる供物を出さなきゃなんねえな」

「そうだよ! まったく迷惑な話さ! しかもダムってぇのは人間がこしらえたっていう話じゃないか! ダムが生む力ってのにみんな目がくらんだんだよ」

「どうしてそんな妖怪作ったんだろう」

「それでいい思いをする人もいるんだろうよ。あたしらには関係の無い話さ。こういう事をみんな、一部のお偉方に決めさせるからこういう事になる。そのためにお前も勉強しなきゃいけないのさ」

 それからラドゥは、雨が引いたらしなくてはならないあれこれについて、母ちゃんと話し会った。何しろラドゥが生まれてから一度も経験したことのないような大水なのだ。これから、村の者達と協力し合って田畑の整理や壊れたものの修繕をしなければならないだろう……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る