第34話 農民の子ラドゥ 3

 この時、ラドゥは家の外に、女の声を聞いた気がした。こんな雨の中夜更けにわざわざやって来る人がいるのか。悪い妖怪の類ではないのか。ラドゥが息を止めて耳を澄ませていると、今度ははっきり、こんな歌声が聞こえてきた。

「美しく 心優しい 奥方様 我らにどうか お恵みを」

 それはラドゥが市場で耳にしたことのある物乞い達の客寄せの歌だった。母ちゃんもそれに気付いたらしい。ラドゥと二人でサッと顔を見合わせた。あの真っ黒な恐ろしい川から逃れて介護来た物乞いが、我が家に匿ってほしいとでも言いにきたのか。よりにもよって、こんな貧しくみすぼらしい家に……。しかしラドゥは心を決めた。

「おら、ちょっと見てくる」

 そして家族の真ん中に置かれたたった一つのランプを手にして立ち上がった。ラドゥが扉を開けると、ごうごうと雨が降りしきる中、階段の下に、二つの人影がうずくまっているのが見えた。ラドゥがそっと階段を下り、二人のそばまで来ると、気配を感じた二人はサッと顔を上げた。ずぶぬれでボロをまとった二人のうち一人は大人の女でもう一人は少年だった。そして女の目が緑色なのが、ラドゥの手にしたランプの明かりではっきりと分かった。しかし焦点が合っていない。目が見えないのだ。女は顔を上げるなりこう言った・

「どうかどうか、賢い、たくましい坊ちゃん、私の子を雨が止むまで家に泊めてはくださらぬか」

 ラドゥは女の言葉を聞いて、思わず体を震わせた。見えていないのは明らかだった。それなのに自分のことを「たくましい坊ちゃん」と言ったのだ。自分ががっちりした体格であることが分かるかのように。

「うちは狭いから……」

 ラドゥは、こう絞り出すように言うのが精一杯だった。相手の事が恐ろしかった。無下に追い払う事の出来る相手では無かったし、この激しい雨の中そんな非情な事が出来るはずもない。その時、ラドゥは背後に母ちゃんの気配を感じた。すると女は伸び上がるような仕草をして見せてからこう言った。

「ああ奥様! わたくしの子を雨が止むまで預かってはくださらぬか」

 ラドゥも母ちゃんも黙って親子を見詰めていた。少年の方は痩せてはいるが、ラドゥより少し年上に見えた。彼の態度は一夜の宿を乞う、という風ではなく、強い視線でラドゥ達の方を見詰めている。しかし次の瞬間、女の身に着けたボロの下から、小さな子どもがひょっこりと顔を出した。ラドゥはその顔を見るなりギョッとした。子どもの顔一面、醜く爛れたイボに覆われていた。続いて現れた小さな腕もイボが覆いつくされていた。あまりの気味悪さに、ラドゥは思わず目を逸らした。

「わたくしども親子は向こう岸の木の又に寝ていたのでございますが、急に水嵩が増してきて、慌てて木の枝につかまったところ、ポキリと折れてこちらに流されてきたのでございます。どうかこの子を雨が止むまで部屋の片隅にでも置いて下さらぬか。御覧の通り小さな子でございますし、人様に迷惑をかけぬよう普段から言い聞かせてありますから」

「この子を預かってほしいっていうんだね。それであんた達はどうするんだい?」

「わたくしと大きいせがれは川べりに戻ります」

「でも、これからもっと水かさが増してくるんじゃないかい」

「優しい奥様! この卑しい妖人めのわたくしどもを心配していただき誠に有難く存じます。この子さえ助けていただければ、私達は大丈夫でございます」

 女の声は落ち着き払っていた。小さい子だけ助かれば自分は死ぬ覚悟が出来ている、とでもいうように。その様子は、どこか威厳すら感じられた。

「分かった。その子は預かるよ」

 母ちゃんが言った。あっという間の出来事だった。ラドゥは思わず声を上げそうになった。これが村人にばれたら大変だ。この家は穢れた家として焼き払われ、我々一家は妖人を家に招いた穢れた家族として村八分にあうだろう。しかし、この小さな子ども一人を匿うことは出来そうだし、出来るならしなければならない、とラドゥは思った。

「ありがとうございます、ありがとうございます」

 母親はそう言って地面に頭をなすりつけた。

「御恩は決して忘れません。この子には水と少しの残飯を与えてくだされば結構でございます。それからこの子は年の割に歌物語をよく知っておりますから、ご所望なら申し付けて下さいませ」

 母ちゃんが階段を下りて親子のそばまで行くと、物乞いの母親は、

「さあ、今日はお前一人でここに泊めていただくんだ。迷惑をかけないよう、いい子にしているんだよ」

 と言って小さな子の体を押した。子どもは母親から離れたものの、サッと再び母親の体にしがみついた。

「イヤ、イヤ、母ちゃんと一緒がいい!」

 すると大きい子が、小さい子のイボだらけの体を母親から強く引き離して言った。

「わがまま言うな! 言う通りにしろ!」

 その時、母親はサッと子どもの耳に自分の顔を引き寄せて言った。

「ほんの二、三日のことだよ。お前がここでいい子にしていたら、お前が聞きたがっているイボイボのトゥラの話の続きを教えてやろう」

「本当? 最後まで全部? 本当?」

「最後までだよ」

 子どもは黙り込んだ。物乞いの母親はさあ、というように子どもの背中を押した。

「さあ、急いで!」

 母ちゃんが子どもを手招きし、階段を上がった。

「母ちゃん!」

 ラドゥはとっさに口にした。彼には、この事が村人にバレる事の他に、もう一つ、心配事があった。子どもの病気が家族にうつるのではないか、ということだった。しかし、母ちゃんは息子の思いを読み取ったかのように、言った。

「この子、かわいらしい声をしてるじゃないか。それにイボイボなんて簡単にうつりゃしないから大丈夫。それに、よりにもよってこんな変わり者の一家を選んで来るなんて、偉いもんだよこの親子は!」

 母ちゃんの言葉はどこか楽し気でもあった。

ラドゥは、子どもが手をつきながらようやく階段の一番上まで上がるのを見守った。見ているうちに、この子を気味悪いと思うより気の毒だと思う気持ちの方が勝ってきた。子どもが一番上まで上り切ると、母ちゃんは物乞いの親子に向かって言った

「この子はしっかり守るから。あんた達の気を付けて」

「ありがとうございます。ありがとうございます」

 物乞いの母親は、何度も何度も地面に頭をなすりつけた。それから立ち上がり、大きい子どもに手を引かれるように歩き出した。二人の姿は、あっという間に闇にかき消えた。

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