第23話 ヒサリ先生 7

 その時、ヒサリは教室の外に人の気配を感じ、ハッと顔をそちらに向けた。そこには、一人の小柄な男が黙って立ち、ヒサリの方をじーっと見詰めていた。少し前からずっとそうしていたのだろう。ヒサリは気付いた瞬間、

「アッ」

 と声を上げていた。男は微笑みながらヒサリの方を見ていたが、その事がいくらかヒサリを不安にさせた。実際、この国の民はよく微笑む。それは単に素朴な好意の表れではなく、裏になにか複雑は感情が含まれているように思えた。笑顔は彼らにとって、本心を隠す鎧でもあった。だからこそ、今朝出会ったイボイボの子のあまりに無邪気な笑い声に、心底ほっとしたのである。

「一体何の用です!?」

 ヒサリの声には、自然に鋭くなっていた。

「へい、あっしはビンキャットと申しまして、この辺の警固をしている者であります。新しいご主人様にちょいとご挨拶をと思いまして」

 ヒサリは、相手が話す間も警戒心を緩めなかった。この地の民は概して控えめで、カサン人に自分から話しかけてくることは珍しい。

「タチの悪い輩をとっつかまえるのがあっしの仕事ですから、カサンのマダムも何か不安なことがあったらなんなりとおっしゃってください。なにしろ最近じゃ西の方からやって来た卑しい物乞い芸人どもがウロウロしてますからね」

「彼らはもともとここにいたんじゃないの?

「いえいえ、あいつらの多くはよそもんですよ。数年前から滅法増えてきたんです。何やら連中のもともと住んでいた辺りに大きな川の要塞が出来たらしくてね、追い出されて来たってわけですよ」

 ヒサリは聞きながらハッとした。ここから西の方向、この村を流れるチャヤテー川の上流には、カサン帝国によって数年前に建設されたダムがある。

「ところであなたは、マルーチャイ・アヌー・ジャンジャルバヌイという子を知りませんか?」

「知ってますとも! イボイボのマルでしょう? なに、あの汚いチビが何かしましたか!?」

「いいえ、あの子は何もしてませんよ。たまたまあの子を見かけただけです。あんまり気の毒なものだから、あの子に何かしてやれないかと思って」

「それはそれは……!」

 ビンキャットは目を丸くした。

「あんな汚らしい物乞いの子にまでお恵みを下さるとは、カサンのマダムは何と心が広い……」

 ヒサリは相手の顔を見返しながら素早く考えを巡らせた。

(そうだわ。我々カサン人はピッポニア人のようにアジェンナから富を収奪するのではなく、恵を与える存在であることを、彼にしっかりと印象付けなければ!)

 ビンキャットはますますへり下るような笑みを浮かべつつ、合わせた両手をぐるぐる回しながら言った。

(それではまことにずうずうしいお願いではございますが、うちのせがれのニジャイも、お恵みのおこぼれにあずからせてはいただけませんでしょうか……)

「お金や物をあげることは出来ませんよ。私が授けることが出来るのは、カサンの知識や技術、それにカサンの言葉や思想です」

「へえ、承知しております。『教育』でございましょう? 近頃は『教育』が大事だと、しきりにみんな噂してまして……ところでここでは授業料はただと聞いたんですが」

「お金はいただきませんよ。ただし誰でも、というわけにはいきません。小さな教室ですから、本当に意欲のある子だけに来てほしいのです」

「うちのせがれは無理でしょうかね?」

「試しに来てもらっても構いません。その上で決めることにしましょう」

 男が去った後、ヒサリはフーッと息を吐いた。この国の大人と話すのはまだ慣れていない。彼らよりも若い小娘の身でありながら、偉大なカサン帝国の文明をこの地にもたらす指導者としてふるまわなくてはならないのだ。それなのに、自分は深い森のようなこの国の前で途方に暮れ、不安でいっぱいなのだ。ヒサリは、教室から自分が寝泊りする小さな小屋に移ると、机の前に座った。これからアジェンナ総督府の文化教育省とカサン帝国軍支部に報告書を書かなければならない。この地の人々の生活、人情、帝国の安定的な支配を妨げる不穏な出来事が無いか、等に関する調査・報告こそが、ヒサリに課せられた第一の仕事であった。妖人の子らにカサン語を教えるのはあくまでも付帯業務に過ぎない。ヒサリ自身、そのことはよく分かっていた。しかし、ヒサリはこの地の「妖人」と呼ばれる子ども達への教育の大切さを、上層部の人々に分からせてやるのだと心に決めていた。

(見てほしいものだ! ここの生徒達が希望にあふれていることを! ここの子供達をしっかりと教育すれば、本国の子に負けない立派な帝国臣民になれるはず!)

 ヒサリは紙に向かってペンを走らせた。

「私はこのアジェンナの地に降り立って以来、驚きで何度も胸打たれた。三日という日数は、この国の民が怠惰で無気力という偏見を払拭するのに十分であった。この国の停滞の原因はこの国の民にあるのではなく、ピッポニア帝国の苛酷な植民地政策であるとますます確信するに至った。この国の民は可能性に満ちている。『妖人』とされ最も卑しいとされる子供達の意志の灯ったまなざしと希望に満ちた笑い声が、それを教えてくれた……」

 やがて、ヒサリの一日の緊張が興奮で焼き切れたかのように、机の上にバッタリうつ伏せになり、いつしか眠りに落ちていた。

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