第20話 ヒサリ先生 4

 ヒサリはやがて、丘の上の、空を覆うかのような巨木の影にひっそりとたたずむ小さな学校にたどり着いた。馬小屋に馬をつけ、校舎に向かった。

校舎といってもそこには床と柱、葉っぱでふいた屋根があるだけで壁がない。つい最近まで老齢の巫女がここにいて、村の人々が彼女のお告げを聞きに訪れていたという。恐らくアジェンナ国全土を見渡しても一番粗末な校舎だろう。しかし生徒達が腰かけられる椅子と机もちゃんと揃えた。校舎は貧しくとも、カサン本国の子に比べ遜色のない教育をしてやるつもりだ。本や筆記用具ももうじき本国から届く。

 ヒサリは椅子の一つに腰をかけ、鞄の中からあの本を取り出し、ページをめくった。あの子の黒い小さな手跡があちこちについている。あの子にカサン語の文字が読めるはずがない。しかし直観的に、この本が何か自分に関わりのあるものだと感じたのではないか。そう思うと大切な祖父の形見に付けられた手跡が、とても愛しいものに感じられた。

(どうにかあの子にもう一度会えないかしら。本ならいくらでも見せてあげるのに……)

 その時だった。サクサクとサンダルが土を踏みしめる音が耳に飛び来んで来た。ヒサリはハッと顔を上げた。白髪に長いひげをたくわえた男性がそこに立っていた。

「バダルカタイ先生!」

 ヒサリは飛び上がるように立ち、彼を教室に招き入れた。

「よくいらっしゃいました! どうぞお座り下さい!」

 アジェンナの地がカサン帝国の支配下に入って以降、アジェンナにもともとあった学校はカサン語学校として活用されることとなった。それまでそこで働いていたピッポニア語やアマン語の教師はみなクビになった。バダルカタイ先生は、今ではシム先生が教えている川向うの学校でかつてアマン語の読み書きを子ども達に教えていたが、突如仕事を失うこととなったのだ。ヒサリはシム先生に抗議しに来たバダルカタイ先生に、自分から声をかけた。そして、これから自分が赴任する川向うの学校でアマン語を子ども達に教えてもらえないか、と懇願したのである。しかし、この国で「穢れた者」として忌み嫌われている妖人の子を教えることに対し、平民階級のバダルカタイ先生がすぐに首を縦に振るとは思えなかった。実際、バダルカタイ先生はヒサリの言葉を聞きながらあからさまに拒否しなかったものの、困惑しているのははっきりと見て取れた。それだけに、ヒサリにとって、バダルカタイ先生がわざわざ「森の際」地区を訪れてきてくれたことは嬉しい驚きだった。

「ここで子供達に教えてもらえるんですか!?」

「ええ、オモ先生の好意を無駄には出来ません。あなたは大変、勇敢な方とお見受けしました。しかしあなたの考えは、上の立場の方々とは違うのではありませんか?」

「そうかもしれません。けれども私は間違ってるとは思いません。この国の子供達が、自分達の母語の読み書きが出来るようになるのは当然の権利です。私達カサン人はあなたがたを服従させるために来たのではなく、友達として、対等な関係を築くために来たのです」

 バダルカタイ先生は押し黙ったままヒサリの話を聞いていたが、やがて、おもむろに口を開いた。

「私がここでアマン語を教える事で、オモ先生に迷惑がかかるのではないですか?」

「いいえ、とんでもない! もちろん、こんなことは私の一存で決められる事ではありません。分かってくれる人は分かってくれるし、後押ししてくれる人もいます。私の祖父はかなり名の知れた民族学者で、この国の文化や生活を愛していました。また祖父は、新しい言語の習得のためには母語の勉強も必要、という考えの持ち主でした。祖父の考えに賛同する一派がカサンの教育界にはかなりいますから」

「成程。他国を支配するやり方にも飴方式と鞭方式があるのですな」

「なんですって?」

「いいえ、なんでもございません」

「ただし、ここの子供達にアマン語の勉強も必要だという者は多数派ではありません。カサン人の中には、アマン語やアジュ語には文字が無い、と思っている者もいる位ですから」

「文字はありますが、実際アマン語の本はほとんどございません。辞書というものもございません。カサンの方々は我々のことを未開な野蛮人だと思っていることでしょう」

 バダルカタイ先生の言葉は穏やかだったが、どこかヒサリの胸を波立たせるような鋭さがあった。

「とにかく、私達は頑張らなくてはなりません。バダルカタイ先生はアマン語の読み書きをしっかり教えてやってください。母語教育をしっかり受けた子はカサン語の習得も早いはずです。私は、ここの生徒に、カサン語を他のどこの生徒より高いレベルまで教えるつもりです」

「お言葉ですが……」

 バダルカタイ先生が口を挟んだ。それは、岩のようにずしりとした重い響きがあった。

「ここの子供達に教育を授ける事は良いことです。ただし、ここの子供達に自分は平民と変わりないとか、あるいは勝っているなどと思い上がらせるような真似は決してすべきではありません。上下の秩序が乱れる事は、天地がさかさまになると同様、世の中の秩序の乱れのもとですから」

(……ほらきた!)

 ヒサリはキッと口を結んだ。私はこの国の文化に敬意を払い、遅れていると思われる慣習にも寛容でありたい。しかし絶対に容認出来ないものがある。それはこの国の身分制度や根強い偏見だ。特に、『人外の民』、汚らわしい『妖人』とされる人々に対するあまりに酷い差別的な扱いのことだ。

「人間に優劣はありません。カサン帝国の一員となった者は、一人の例外も無く立派なカサン帝国臣民になれるのです。ここはすでにカサン帝国領の学校ですから、そのような方針で子供達を教育します。どうかこれだけは従ってください」

「…………」

 バダルカタイ先生の控え目な沈黙の中に、あからさまな反発は読み取れなかった。

「……ごめんなさい。強く言い過ぎました。私はただ、バダルカタイ先生にあちらの学校の子供達に対するのと同様、こちらの子供達にも情熱を注いでほしいのです」

 老教師は、少し押し黙っていた。やがて

「……はい、新しいご主人に従う事が私の務めですから」

 と言った。ヒサリは、目の前の相手に対し言いたい言葉が喉まで上がって来たが、結局外に出る事は無かった。こちらが何か言えば言う程、この老教師は被支配民族としての恭しい態度を取るだろう。そんな態度はヒサリの望むものではなかった。それは控え目な拒絶を意味するものだ。二人の間に沈黙が流れた。

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