第18話 ヒサリ先生 2
ヒサリが、大切な本を入れた鞄を見ようと視線を下げた瞬間、アッと声を上げた。馬の首に掛けていたはずの鞄が消えているのだ。ヒサリはゾッとした。鞄の中にはお金の他に身分証明書や銀行の証書といった大切な物が入っている。そして、おじい様の形見のあの本が……! ヒサリは立ち竦んだ。頭上に容赦無く照り付ける太陽までが、一瞬暗くなったと思った。次に感じたのは、全身にのしかかるかのような熱波。
(ダメよ、こんな事でくじけたりしちゃ! 異国に来たんだもの。こんなハプニングはよくある事!)
ヒサリは自分を奮い立たせるように手綱を引き、馬の向きを変えた。そして今来た道を戻り始めた。
しばらく引き返したところで、ヒサリは泥だらけの、まるで小動物のような子供二人が草の茂みの中に入って行く姿を目撃した。二人のうち一人の子は間違い無くヒサリの鞄を抱えていた。「二人」というより「二匹」とでも言うべき小さな子供の姿は、あっという間に草むらの中に消えた。ヒサリは、子供達が消えた辺りで馬から降り、手綱を木にくくりつけた。そして、ぬかるみの中に靴を半分埋めながら、草をかき分け、歩みを進めた。草むらの奥からは、ヒソヒソというささやき声と、鳥の囀りのような笑い声が聞こえてきた。ヒサリは息を潜め、一歩一歩、草むらをかき分けて進んだ。その奥の少しばかり開けた場所に、二人の子供はいた。子供達は好奇心たっぷりな様子で、早くも鞄の中身を引っ繰り返し、地面にぶちまけていた。ヒサリは、二人の子供を驚かせぬようそっと近付いた。二人共真っ黒だったが、それは恐らく肌の色ではなく体にこびり付いた垢や汚れのせいだろう。アジェンナ国北部のアジュ族は黒っぽいがこの子達より艶やかな肌色である。一方、この地域のアマン族の彼らは本来赤みがかった褐色の肌をしているはずだ。そのうち一人の子は、この辺りの子がよくしているように農作物を入れる麻袋のボロボロになった物に首や腕を通す穴を開けて着ている。その子はぶちまげた鞄の中身の一つ一つを手に取り、もう一人の子に、
「おい、見ろよこれ! 鏡だ。持ってた奴、女だ! 間違いねえ」
などと言っている。もう一人の子は下を向いたままじっとしていた。しかし次の瞬間、麻袋を着た子が顔を上げた。ヒサリと目が合った。すばしこい小動物を思わせる、キラキラした目の子だった。子供は「アッ」と小さく声を上げた。その目は大きく見開かれた。ヒサリは子供達の方に一歩足を踏み出し、アマン語で子供達に語り掛けた。
「その鞄は私のよ。返してちょうだい」
その時、じっと下を向いていた子供が顔を上げた。その顔を見た瞬間、ヒサリはギョッとして後ずさりした。子供の顔は、一面、醜いイボに覆われていた。カサン本国では比較的稀になったイボイボ病が、アジェンナではいまだ猛威をふるっている事は知っていたし、実際アジェンナに来てからイボイボ病の者が物乞いしているのを何度か目にした。しかし、こんなに間近に見るのは初めてだった。しかも子供は、なんと、イボだらけの汚い手でおじい様の形見の大切な本を握り締めているではないか! ヒサリはゴクリと大きく唾を呑み込んだ。
(でも、とにかく返してもらわなきゃ……)
ヒサリはイボだらけの子から目をそらし、息を吸い込み、一歩踏み出した。その瞬間、麻袋を着た子の鋭い声が、ヒサリの耳の奥を射た。
「これは俺たちが触ったから、もう穢れちまったんだぞ!」
ヒサリは、いきなり胸倉をつかまれたような気がした。子供は「お前の持ち物はもう穢れてしまったからこっちによこせ」と言っているのだ。ヒサリは、この国で妖怪に関わる仕事をしている者が「妖人」と呼ばれ穢れた卑しい存在として激しく差別されていることは一般的な知識として知っていた。しかしこの子はその事を逆手に取り、自分から鞄とその中身をせしめようとしている。
(何てふてぶてしい子なの!)
しかし、ヒサリは自分の中に残っている全ての理性を用いて興奮を抑えつけ、絶対に返してほしい本に視線を集中させた。本を握り締めている子供の顔は見ないようにしながら、一歩一歩足を踏み出した。
「それにはこいつの病気がうつったんだ! もし取返したらお前にも病気がうつるぞ!」
麻袋を着た子がわめくように言った。その言葉に、ヒサリの心は再びカッと燃え上がった。
(子供にこんな事言わせてはいけない! 絶対に!)
ヒサリはキッと口を引き絞り、きっぱりと言った。
「あなた達が触ったからってそれは穢れはししない。それに病気もうつらない。さあ、返しなさい」
その瞬間、イボイボの子はポトリと本を手から落した。ヒサリは子供のそばまで寄ると、しゃがんで本を拾い上げた。そしてそこに散らばっている鞄の中身を一つ一つ拾い集めた。その間、二人の子供はヒサリのする事をじっと見ているようだった。散らかったものを鞄の中にしまい終え、立ち上がった時、麻袋を着た子がイボイボの子に向かって
「行こう!」
と言い、そのまま茂みの奥に消えた。もう一人の子もゆっくりと立ち上がり、ヨタヨタと先に行った子の後を追った。しかし、すぐに前のめりにパタリと倒れた。足の裏まで覆いつくしたイボのせいで、うまく走れないのだ。その瞬間、ヒサリの胸にこの子を気の毒に思う気持ちが込み上げ、気味悪いと思う気持ちを押し流した。
(大丈夫かしら……)
ヒサリは、イボだらけの子がもう一度立ち上がるのを待った。その子の動きはもう一人の子の俊敏さに比べ、いかにもゆっくりだった。身に着けているのはもはや服と言えるものではなく、どう体に絡みついているのかわからないようなボロ布であった。子供は上半身を起こしたが、立ち上がろうとはせず、両手を地面につきながらヒサリの方を向き直った。
(どうしたのかしら?)
ヒサリは不思議に思いながら、今度はイボイボの子の顔をしっかりと見返した。その時だった。顔じゅうを覆いつくしたイボの隙間から
「フフフフフ……」
という笑い声が転がり出たのは。それはまるで、泥の中から噴き出す清水のようだった。ヒサリがこれまで聞いたことの無いような、無邪気な、澄んだ笑い声だった。ヒサリはあっけにとられて子供を見詰めていた。そのうち、子供の笑い声がヒサリに乗り移ったかのようにおかしくなってきた。
(……どうしたの? どうして笑ってるの?)
たった今、ヨロヨロと頼りなく歩いていた足が、狂ったように、嬉しそうにパタパタ地面を打っている。十数秒もそれが続いただろうか。子供はピタリと笑うのをやめた。そしてサッと両腕を持ち上げた。かと思うとヒサリの方にそれをグイと突き出した。それはまるで、子供が母親に対して「抱っこして!」とねだるような仕草だった。
(ああ! この子が私に向かって腕を伸ばしてる!)
それが分かった瞬間、ヒサリの胸から熱い血がどっと全身に溢れた。同時に、脳裏には、このアジェンナの地に降り立って以来、この国の民から向けられる視線が蘇ってきた。それは遠慮がちで、ヒサリと視線を交わらせることは決して無かった。たとえ何かのはずみで交わったにしても、そこには警戒心と断絶とが浮かんでいた。カサン人とアジェンナの民は同じ黒い目をしているのに……。それは、数百年も悪しきピッポニア帝国の軛の下に置かれた虐げられ、服従に慣れた民の目だった。しかし、この幼い子の目は違った。イボイボの間に埋もれてよく見えないにもかかわらず、まっすぐヒサリの方に向けられているのが分かった。
(よし! もし、私がもしこの子を抱きしめることが出来たら、この国も私を受け入れてくれるはずだ。絶対に!)
そんな確信めいた思いが不意にヒサリをとらえた。ヒサリは唾を呑み込み、イボだらけの子供の顔を見返した。
(……大丈夫、うつりはしない)
イボイボ病は幼児や体力の落ちた病人でなければめったに感染することはない。たとえ感染したとしても、最近カサンの学者が病気を治す薬を開発したと聞く。勿論、手に入れるには目の玉の飛び出る程の金を払わないといけないのだが……。
(でも、大丈夫。恐いものか)
ヒサリは再び自分に言い聞かせ、子供の方に一歩一歩足を進めた。子供は、ヒサリに向かって伸ばした腕をスーッと下した。しかし、顔はヒサリの方に向けられたままだった。ヒサリは子供の目の前に来ると、しゃがみ込み、子供の腕の下に自分の両腕を回して抱え上げた。子供は、本当に抱き上げられるとは思っていなかったのだろう。
「ああっ」
と小さく呻いた。驚く程痩せた子供だったので、ヒサリは楽々抱え上げることが出来た。さらにヒサリは自分の腕にしっかりと子供を抱き直した。子供はヒサリの腕の中で、十数秒間固くなっていた。やがて、その身体はゆっくりと、溶けるように柔らかくなり、くしゃくしゃの髪に覆われた頭はヒサリの胸にピッタリとくっつき、まるでそこに窪みを作るかのようだった。子供の体の熱が伝わってきた。ヒサリは自分の腕の中で子供の腕をゆっくり上下に揺らした。やがて動きを止め、
「私の名前は」
とアマン語で言った。
「ヒ・サ・リ」
「ヒ・サ・リ?」
そう繰り返した子どもの声は、「ヒサリ」の意味が「輝く」であることを知っているかのように、光に満ちていた。
「そうよ。オモ・ヒサリ。あなたの名前は?」
「マル」
その後、子供はもう一度、歌うように言った。
「マルーチャイ・アヌー・ジャンジャルバヌイ」
幼い子は、自分の長い正式な名をはっきりと口にした。
ヒサリはハッとした。
(アヌー・ジャンジャルバヌイですって!)
その時だった。ヒサリの耳に鋭い声が響いた。
「化け物! そいつを放せ!」
ピシッと固いものがヒサリの肩に当たった。
(痛い!)
石の飛んで来た方を見ると、先程の麻袋を着た子が、二発目を投げようと構えている。ヒサリは慌ててイボイボの子を地面に下した。麻袋を着た子はマルと名乗った子の腕を取り、グイグイと引っ張った。マルはもう一度ヒサリの方を振り返って見、そしてもうひとりの子に引きずられるようにヨタヨタと藪の中へと消えた。ヒサリはしばらくその場に立ち尽くしたまま、体じゅうに熱い血が潮のように満ちてくるのを感じていた。
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