第5話 妖獣の靴職人の子ダビ 5

 校庭に整列した生徒達の最前列に立ったダビは、カサン帝国旗がスルスルと棒を上って行くのを目で追っていた。

もうじき、一年で一番暑い時期にさしかかる。太陽の光はダビの体を打ち据えるように照りつけ、額からは汗が絶え間なく噴き出したが、拭おうとは思わなかった。こんな厳かな時に汗を拭ったりしてはいけないのだ。それは、カサン精神を学べば学ぶ程、自然に身に付く考えだった。出来れば生徒総代に選ばれ、今、学校一の成績のエルメライが担っている国旗掲揚の役目を自分のものにしたかった。しかし、ダビがどんなに頑張っても地主の子であり、家庭教師を雇っているエルメライの成績を上回る事は出来ないのだった。

国旗が棒のてっぺんまで上がり切ると、生徒全員で「帝国に栄光の日は昇る」を斉唱した。歌い終わると、全員体を折るように深々と頭を下げた。

「なおれ! 教室に戻れ!」

 エルメライが号令をかけると、生徒達は一斉に教室に向かって駆け出した。「物事をだらだらと行うのは、それだけ有意義な事をする時間を失う事である。だから行動は迅速に」と学校で教えられた。成程、カサン人がこれ程強いのは、そういった所から我々とは違うのだ、とダビは思った。

 白い木の板を組んだ輝くように美しい校舎の中に入ると、そこはずらりと机と椅子が並べられた教室である。学校に通うようになるまではずっと床に座る生活をしていたので、最初は椅子に座る度に腰が痛くなったものだ。しかしダビは懸命にそれに慣れる努力をした。父さんに頼んで机や椅子を作ってもらって部屋に置き、毎日それに座って勉強をした。高度な文化を持つカサン人は尻も地面に付けないのか、と思った。そして自分を「妖人」と卑しめる平民の子らが、自分と同じように床に尻を付ける生活をしている事が愉快に思えた。

 教室に入るやいなや、ブーンという名の子が、その場にシム先生がいないのをいいことに、机と机の間に立ち止まり、先に席についた子にアマン語で話しかけた。

「邪魔だからそんな所に立ち止まらないでくれ」

 ダビはカサン語でブーンに言った。学校では自分達の普段の話し言葉であるアマン語は厳禁で、授業時間以外もカサン語で通さなければならない。しかしカサン語の成績が悪くお喋りなブーンにとって、それはとてつもなく難しいことのようだった。ブーンはサッとダビの方を向くと、アマン語でダビを罵った。

「うるさい! この汚らわしい妖怪野郎!」

 ダビはこの瞬間、自分の喉から真っ赤な拳が飛び出すかと思う程激高した。しかし直後、ダビは冷静に自分の感情を抑え込んだ。そしてシム先生の靴音が近付いてくるのを聞きながら、ブーン達がシム先生が来ても気付かない位置に立ち、ブーンが夢中になってアマン語で話す様子を見詰めていた。

「誰です! アマン語を話しているのは!」

 シム先生の、女性特有の甲高い声が教室に響き渡った。この辺の女の人からは聞いたことのないような声で、それはまるで北の国から吹き付ける風のように冷たかった。ダビはサッと振り返り、シム先生に向かってカサン語で言った。

「ブーンカヴィーです。ブーンカヴィーがアマン語を喋りました! 私にとても汚いアマン語を言いました!」

「ブーンカヴィー! あなたが今アマン語を喋ったのですか?」

 ブーンは追及に対し、反論したり嘘を言ったりするだけのカサン語力は持ち合わせていなかった、ただ目を白黒させながら「あ……あ……」と言うのが精一杯だった。

「あなたが学校でアマン語を喋るのは五回目です!」

 ブーンの胸には、アマン語を話す度に渡される黄色い札が何枚もみじめにぶら下がっていた。

「前に出なさい!」

 ダビは自分の席についた。その位置からも、ブーンの体が小刻みに震えているのが分かった。ダビは今、この瞬間、教室の皆がどれだけ俺を憎んでいるだろう、と思った。これまで学校でアマン語を喋った同級生を告発したのは一度や二度ではない。しかし、憎まれてもいい、と思った。教壇に立ったブーンの丸みを帯びた背中の上を、シム先生のムチが狂ったようにうねった。と同時にヒュウ、ヒュウ、と音を立てた。遥か北の国に住む、ダビの見たことの無い妖怪の叫びのようであった。

「ヒィ! ヒィ! ヒィ!」

 ブーンが、まるで断末魔の小動物を思わせる叫び声を上げた。教室にいる生徒の多くが下を向き、耳を抑えた。一方ダビは、悲鳴を上げるブーンの方をまっすぐ見詰めていた。ダビだけではない、ダビの隣にいるエルメライもそうだった。ダビ、エルメライ、サンという、成績の良い三人が教室の真ん中の席を占めているのだ。ダビはこの時、隣のエルメライがこんな風に呟くのをはっきりと耳にした。

「痛いより、汚いし、恥ずかしい……」

 彼はアマン語を喋るなどというへまはせず、カサン語で言った。ダビは、その言葉を聞くやいなや、ハッとした。エルメライの言葉の意味するところはこうだ。ムチとは一般的に妖獣の皮で作られる。そんなもので打たれるのは汚いし恥ずかしい、というのだ。明らかに妖獣の皮を扱う仕事をしているダビに対する当てつけだった。ダビの膝の上に載せた拳が、勝手にブルブル飛び撥ねた。勿論、今、隣にいるエルメライを殴る事は出来ない。吐きだす事の出来ない怒りは、ダビの顔を真っ赤に染め上げるのがやっとだった。

 よろけながらようやく席に戻ったブーンは、痛みのためか「恥ずかしさ」のためか、そのまま机の上に突っ伏した。

「いいですか! 学校ではアマン語の使用は禁止です!」

 シム先生の鋼のような言葉が生徒達を圧した。ダビはゴクリと唾を飲み込んだ。なぜ学校でアマン語を使ってはいけないのか。その理由が以前は分からなかった。しかしダビは徐々に理解するようになっていた。言葉とは人々の心そのものなのだ。そしてアマン語はだらしない怠け者の言葉だ。なるべく頭の中をカサン語でいっぱいにしなければ、カサン人のように強く立派にはなれないのだ。

「では、授業を始めます」

 ダビが蔓をほどいて本を広げて目を落した瞬間、無残なシミが目に入った。とたんに高揚していた気持ちに影が差した。

(畜生……ナティの奴! あいつのせいで!)

 とっさに本を手で覆い隠しかけたが、その挙動に目をつけたエルメライがすかさず、シム先生に届く声で言った。

「おや!? ダビッドサム、教科書がすごく汚いな」

 シム先生がサッとダビの方を見た。

「どうしたのです! その本は!」

「……はい、学校の帰りに落としました」

「『落としました』などと軽々しく言うものではありません! いいですか、教科書はカサン皇帝が我々に下さった大切なものです!」

 シム先生の刃物のような声は、ダビの腹の底をえぐるかのようであった。

「授業の後、職員室に来なさい」

「……はい」

 ダビはそう言ったまま下を向いた。他の生徒達の前でムチ打たれる、という最悪の事態だけは免れた。痛みには耐える事は出来るが、恥辱には耐えられない。さらにダビにとってつらいのは、これまで努力しシム先生の信頼を得てきたのに、それが損なわれたかのように感じたことだった

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